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2001年こぐれ日録12/30の一部(art partyを検索していてたまたまみつける)

2001年のこぐれ日録より
12/30(日)
私は戸締まりを確認して大阪野田の実家へ。
おやじはこたつでクラシック音楽のテレビばかりみている。居眠りをしながら。前から一度おやじの軍隊以前の話を聴いておこうと思っていたので何も書いていないノートを見つけて、聞き書きを始める。

1920年3月6日、島根県東出雲町の揖屋という辺りで生まれたのは知っていたが、おやじ(小暮一郎)の父親の名前は知らなかった。16歳ぐらいのおやじの母を、彼女が養女としていた越野旅館(揖屋町)で見初めて結婚した。小学校の校長先生(吉田という姓だったようだ)で3階建ての家だったということ(おやじは聞かされているだけ)。

(戸籍を見ていると、校長先生の籍には、一郎さんとその母春江さんはいれてもらえず、越野のままで、大正13(1924)年7月11日に春江さんの兄・小暮時雄さんが戸主の戸籍に、甥という間柄で入る。)

姓は吉田ということを初めて知ったが、下の名前はおやじも知らないようだ。一郎が生まれて父親はすぐに亡くなり、一郎の母、春江はすぐに離縁。養女(9歳ぐらいに父親が死んで姫路からもらわれていった)に入っていた越野家からも抜け出て、すぐに大阪市に住み込みで入っていた春江の母(一郎の祖母)小暮ヱキヤのもとに、一郎を抱いて人力車で突然転がり込んできたからだ。

そのあとの話も色々聴いたが、小さいときから音楽は好きだったようで小学校でもいつも音楽だけは満点だったという。お金がなかったので住友の養成所に入り3年後住友電気に入社。すぐに吹奏楽団でクラリネットとアルトサックスを吹く。当時のラジオ局で演奏したこととか、日比谷公会堂で関西代表になって演奏したが入賞しなかったことを良く覚えている。

初めて知って興味深かったのは、春江のお兄さん、小暮時雄が、大都映画の系列の新世界にあった敷島倶楽部という映画館を任されていて、おやじは、時雄おじさんの映画館で正月などキップを渡したりしたというのだ。時雄おじさんはかなりのしゃれ者だったらしい。が、2番目の妻益江の頃肺結核になり、この益江さんは春江が持っていた黒檀の三味線を借りていきチンドン屋をしたりして苦しい生活を送っていた。この話は、おやじの妻(つまり私のおふくろ美津子)がヱキヤさんから聴いていたものである。

そんなことをメモりながら、おやじが少年兵になった1941年3月1日までを聞いた。いまの野田の長屋は大正の初めぐらいに出来たという。
奥の離れを造ったのが戦後すぐ。それから離れと母屋を廊下でひっつけてピアノを置き、物置を小さくして風呂を造る(これはぼくが小学5年生ぐらいのことだ)。その後すぐぐらいに平屋の上に勉強部屋の2階をくっつけているが、これはもう随分先のことであった。
Commented by kogurearts at 2005-01-30 09:33
近いコンセプトだなあと思ったら、なんとエイジアス関連でした。やっぱり!
by kogure613 | 2004-12-06 06:32 | | Comments(1)

こぐれのぶお・小暮宣雄 写真は春江おばあちゃんと・サボテンの花嬉しく 


by kogurenob