《ドライトマトと飛行機と裏声》Popol-vuh と伏見憲明「さびしさの授業」

断酒歴57日。
よりみちパン!セの4冊目を読む。伏見憲明さびしさの授業』理論社2004.12。
100%ORANGEのイラスト(カラーの挿絵)がますますさえる。
金満里さん(劇団態変)の『生きることのはじまり』(筑摩書房1996)がずいぶん丁寧に引用されている。

ただ、メジャーな「赤毛のアン」や「千と千尋の神隠し」も利用されていて、たしかに中学生などに伝えるためには、こういうポピュラーな素材を活用することが必要なのだろうと少し勉強になる。もちろん、この本にはメジャーにおもねるのとは反対の強い(だからこそさびしさが透き通るような)意思がある。たとえばP53:

 ゆっくりと待つことしかできないことだってある。
 もちろん、もしかしたら一生、「私」の願うような場所は見つからないかも知れません。もちろん、待ち望む人が現れるとも限らない。しかし、その希望を消さずに、自分の中でそれを大切に確保していくこと、そのことじたいで、「私」を活かすことができると信じたいのです。また、人はそうやっていかざるをえないのです。 from 伏見憲明『さびしさの授業』
大学の入試監督。後期は、2科目だけだったので比較的早く終わる。今年のうちが共学特需なのだとしたら、来年がどうなるのか、心配である。今日一緒のバスに乗っていた文化政策学科志願の受験生も、去年の入試結果を見て応募したら今年は受験生が定数の減少(新しい学科を作ったため既存の文化政策学科は130→100になった)にもかかわらず2倍以上でびっくりしたと言っていた。
京大が後期入試をやめるという報道。学力重視のためらしい。きっと、さまざまな形態の入試を発明し選択肢を増やすようにしてきたこれまでの傾向はいま変わろうとしているのだと思う。それは、あまりにも入試のミスが多発している(同志社大の受験前の不合格通知ミス、これの実害はないだろうけれど)からでもあるし、基本的な学力のなさが目立つからでもあるだろう。

アリス零番館-ISTプロデュース。単独のポポル・ヴフ公演(Popol-vuh Dance Performance)である。
『ドライトマトと飛行機と裏声』。開場が18時50分からになったので、ロビーで座っている。音楽が聞こえる。舩橋さんのソプラノサックス(バスクラリネットかも知れない)がピアノのテープ音と共に聞こえる。直前まで作り直しているのだろうか。こうして、直前の気配を聞くのもスリリングなもの。

入場。黒く幕が施されたパフォーマンス空間と鮮やかな赤と黄色の客席クッション。劇団太陽族のみなさんの姿あり。ポポル・ヴフのつながりは少しダンスだけでない広がりがあって、音楽はもちろん舩橋陽であり、ぼくはよく知らないが、衣裳の佐藤絵美や映像のPUBWAY(中間の章に移された線香花火の白黒逆転モノクロームのシンプルさはポポル・ヴフの空気そのものである)の役割の大きさが反映しているのだろう。

19:08。葦田幸代のMC。これは普通なのだが、葦田さんが入る直前に、二人のダンサー、原和代と下津浦瑞希がすっと入ってきてスタンバイするところが鮮やか。まっ暗になってさあするぞっていう感じでないここのうまい始まり方である。水色なノースリーブのワンピース。感じは似ているが微妙に違う体型がうまく衣裳に反映している。三部構成の最初は、このまえ、アトリエ劇研で楽しんだ「飛行機」である。

これが、ポポル・ヴフの一つの到達点であると再確認する。それがあまりにもランダムなので、意味にも時間の刻印にも役立たない数字のカウント。ただの音でしかないカウントに音楽がさりげなく絡まってくる。素材を消さない味付けがここの音楽の基本であり、全体構成のモチーフ。だから、微妙な色合い、風合いに鈍感だと始まりも終わりも気づかないことにもなりかねない。

こうして、音楽だけをとっても、抽象的だが穏やかな肌合いが感じられ、従ってそれはコンセプチュアルななにものかではなく、大仰な意味づけ(=現代アート作品が持つ韜晦な主張)の回避のなかで、そのまま女声の肉感をとどめる巧妙な音環境をもたらしているのだ。

もちろん振付(構成・演出は代表の徳毛洋子だが、振付はポポル・ヴフのみんなである)においても腕のばしの抽象性がモンドリアンのような構成力を持っているとぼくは思っている。ただ、そういう確信しているここの振付の決定力について、そのぼんやりとした舞台の有り様からはなかなか周囲には理解してもらえないもどかしさはある。でも、ポポル・ヴフ(征服されて消されたマヤ神話自体は何も知らないのではあるが)とじっくりとつきあっているぼくには少しずつ、少しずつ、ここのダンスの核心みたいなのが見えてきているので、心底嬉しくなる。

それは、《水平線の不確かさのなかで、きれいでゆたかなのにすこしさびしい意思の所在を探すたび》なのだろうとかってに思っている。ダンスする二人は互いを意識しつつ意識しない。別々であって一緒なのである。2つめの座ってのストイックなダンスパート部分(はまだくみ&徳毛洋子スレンダーペア)においても同じこと。線香花火の映像も「きれいでゆたかなのにすこしさびしく」燃えている。終わりを始まりに予感させ、終わりも余韻を残さないシンプルさ(さっと機械的に消える最後の映像だけは、もっとゆっくりとじわじわ消えていくのでもいいように思うのだけれど)。

構成はシンプルな三部構成。A-B-A’である。動きや行為の反復が気持ちいい。Bの目隠しがA’に立ち上がって拡大して反復する。下津浦の斜め後ろ旋回。
撤退でも回避でもない目隠し。前に行くために必要な逡巡。希望のほとんどない希求、焦点の定まらない注視、時刻の定まらない飛行。

最近眠くなる演劇やダンスが多くなって困っているのだが、ここだけは、なかなか目が閉じない。目が閉じていても耳が覚醒を維持させる、そういう不思議な存在なのである。
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Tracked from Wonderland at 2005-03-28 13:00
タイトル : ポポル・ヴフ「ドライトマトと飛行機と裏声」
 大阪・京都を中心に関西で活動しているパフォーマンスグループ、ポポル・ヴフの「ドライトマトと飛行機と裏声」公演が大阪のアリス零番館で開かれました(3月2日)。京都橘女子大学でアーツ・マネジメントを教えている小暮宣雄さんのメールマガジン「KOGURE Journal/Express」(vol.1532、3月24日発行)がこの公演を取り上げています。同じ内容が、小暮さんの「日録」ページとwebログ「【こぐれ日乗】消えつつ残りつつ」の双方に掲載されています。...... more
by kogure613 | 2005-03-02 16:56 | こぐれ日録 | Trackback(1) | Comments(0)

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