「東京に幽霊が出る。トマソンという幽霊である。」赤瀬川原平

2005/3/27
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今日は、近未来系築港赤レンガ倉庫「労働と音楽」に行こうと思っていたのだが、どうも頭痛がひどくて、一人お留守番をした。昨日のことをゆっくり書いたのみの日曜日である。

古本がどんどん届いている。

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田辺剛さん(まちかど芸術)つながりで、赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987。初出は1985)が届いた。序文がおかしく、初々しい。

書き出しのp9~10より
 東京に幽霊が出る。トマソンという幽霊である。東京だけでなく大阪にも、神戸にも、横浜にも、名古屋にさえも、いやそういう有名都市だけではない。日本列島の、人が集まり住むところには町が出来て、家並がひろがり、賑やかな生活が繰り返されてる、その生活に隠れて、いつしかトマソンの幽霊が出ている。
・・・・・
 トマソンのことを話しても、はじめは誰も信じなかった。ただの冗談かと思われていた。たしかにこれは冗談でもあるのだけれど、その冗談の裏側にひっそりと、冗談ではなく幽霊がはりついている。
 しかし最近は世の中の進歩が早く、トマソンという言葉の通りがよくなった。人々にトマソンの知識が普及してきたのである。トマソンとはかつてアメリカの大リーガーで、それが高給で日本に迎えられてジャイアンツの選手となった。ところがスイングは出来るがボールに当たらず、空振りとなり、野球には使いようがなくてベンチにはりついていた。そのトマソンを漢字で書くと「超芸術」というふうになり、その双方の言葉のねじれた位相に、都市の幽霊がぼんやりあぶり出される。
トマソン、超芸術(赤瀬川原平)。もともと都市や生活に欠かせない機能を持ったものだったのに(柱や門、庇など)、それがなくなってしまったことによって、目的としての芸術と並行的に対置できるトマソン、その観察であり記録としの路上観察(学会)。作者や設置者に意図がないから「芸術を超える」ということなのだろうか。
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そのほかに、似ているものとして、アウトサイダーアート、外部者芸術。ブリコラージュアート、間に合わせ芸術。反芸術アートレス(川俣正)。オールタナティブアート、代替芸術。OSとしてのアート(藤浩志)、過程芸術。もちろんマージナルアーツ、限界芸術(鶴見俊輔)。
いろいろあるが、まちかど芸術においては、反芸術と超芸術の関係について、少し考えることが必要かも知れない。

なお、「幽霊」については、マルクス+エンゲルス『共産党宣言』序文を踏まえているのだろうが、そういうことはもう誰も言わなくなったのだろうね。つまり、「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」のパロディーだと(ブルジョアジーが担っている資本主義に比肩しうるような正統な芸術に対して、プロレタリアートが準拠すべきものとしての共産主義に対応するかのようなトマソン。まあ、これはちょっと著者の洒脱な文章意図とはそぐわない牽強付会のものではあるが)。

さて、問題。
《ここで赤瀬川さんが「幽霊」として指ししめしているものは、冗談のようだがそうではなく○○○だったという風に読めます。○○○は何でしょう。日本語で答えなさい》
まあ、この問題は答えがすぐに分かる企業の新商品クイズみたいなものだが、でもさて本当に「○○○」はすぐに分かる答えである「超芸術」でいいのだろうか。芸術を超える芸術とは何か。共産主義がかつて弾圧・排除されてきたように、トマソンは迫害を受けたのだろうか。さて。
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Commented at 2005-03-27 22:52 x
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Commented at 2005-03-28 06:50
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by kogure613 | 2005-03-27 17:51 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(2)

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