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鶴見俊輔さんと限界芸術論、反安保デモ、歌・・

2015/7/24

鶴見俊輔さんが、7月20日(2015年)に、京都市内でお亡くなりになったという。93歳。
1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日。
限界芸術論で一番お世話になってきた思想家さんだし、それ以外の発言、著述もそれなりに接しさせていただき、とても影響を受けている方。とりあえず、深く黙祷するしかない。

『限界芸術論』(ちくま学芸文庫、1999年)を手に取る人が増えるだろうな。とてもいいことだ。かなり昔の論考なのに、骨のところはいまもとても大事だからだ。
ただ、例示されるものは、1955年生まれの自分でも昔過ぎて知らないものも結構ある。なにせ、限界芸術という鶴見さんの造語(1955年に心に浮かんだそうだ)が初めて活字になったのが、1956年の日本読書新聞の対談のなかだったそうで、4年後の1960年に、『講座・現代芸術』第1巻に所収されているのが限界芸術をとりあげた「芸術の発展」という論稿である。
ただ、この文庫には、それ以外にも多くの大衆文化論や限界芸術的な論稿が収められている。

いま、1960年安保当時と比較できるような、市民・学生・学者デモが各地で展開されている。その違いは様々に指摘されているが、鶴見俊輔さんが「芸術の発展」の最後の表「芸術の体系」のマトリクス、すなわち「行動の種類/芸術のレベル」のうち、「演じる⇒見る、参加する/限界芸術」の分類はまだ活き活きとしているなとその射程の長さに感心するのだ。

つまり、「演じる⇒見る、参加する/限界芸術」には、「祭、葬式、見合、会議」・・・・・・とあって、「墓まいり、デモ」で終わっているのだ。
最後に「デモ」。1960年にこの論考が出版されたということもあるだろう、ここでデモが限界芸術として登場するというのは。ほんと、演じる人と見る人、参加する人が、非専門的な芸術者でありその享受者であるとともに、その立場が交換可能であることに、当時、国会を取り巻く反安保デモに見ることって、なんか、凄い。

もちろん、デモのなかには、政治的以外のものもあるし、フラッシュモブもその進化系だともいえる。が、いまはまた、あたらしい形での集団的自衛権の容認を解釈改憲で行うことへの反対、安保法制への反対という、政治デモが続いていく(いや、続けねばならない事態でもある)。
そのなかで、日本のこれまでの政治や文化を含む戦後体制、平和安全保障システムの行方を左右する直接行動が、同時に限界芸術であることに気づくことは、文化や芸術が単なる娯楽や余暇だけではないことを明らかにする。そして、更に、デモが、限界芸術であるとともに、根源的な生活に根ざした、「限界政治」「限界運動」でもあること。それらが、すでに55年前に提示されていたことに思い至る。

まさに、いまの安保反対(脱原発)デモは、参加することが、キーポイントであり、いまどきの音楽やダンスが豊富であって、まさしく、限界芸術性は1960年当時よりもすこぶる豊富になっている。そして、団体動員以外の個人参加、自由な離脱可能な集まりであることが、軍事から出たテクノロジーではあるが、sns/インターネットによって可能になっているのも特徴だ。

話は変わるが、大学では、ロックフェスティバルを卒業研究テーマにしたいという学生が後を絶たない。彼ら彼女らの論文のいつでも前置きは、CDの売上減少に対して、ライブ需要が増大したということだ。ネット配信の拡大もあるのだが、それとは矛盾しないで、大きな会場での音楽ライブや、複数の会場を選べる音楽フェスが人気といふうに繋がる。

このロック野外フェスへの傾斜傾向が、広く、いまの参加性とか、限界芸術における参画とまでは行かないが、どこか、限界芸術を豊富にはらむイマドキの安保デモ、とりわけ、若い人たちのSEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)と連動するのではないかと想像する。つまり、音楽デモは、野外フェスによって、敷居を低くしたのではないかという仮説である。
野外フェスは、音楽ホールとは違って、寝っ転がってライブを楽しむ自由、選ぶ自由が一応あるからだ(まあ、グッズなどを買ってしまってけっこう消費誘導されちゃっているのも現状だろうが)。

アイドル歌謡の場面でも、聴衆が参加できる隙間を作ることが大事だとヒャダインさんが言っている番組を観た。グループアイドルが全盛なのも、クラスの仲間などと一緒に真似て踊る楽しみがグループの振りにはあるからだろうと推察できる。

あと、少し気になるのは、江戸末期のええじゃないかの話との関係。あるいは、一向一揆や土一揆との関係などと、この音楽デモや野外フェスとの関係もすこし考えてもいいのかも知れない。
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Kさんが「アカシアの雨がやむとき」について呟いてはったが、それは、ちくま学芸文庫『限界芸術論』所収の「現代の歌い手」(出典は、小泉文夫他『歌は世につれ シンポジウム 今日の大衆と音楽』講談社、1978)のなかの話。
この論稿って、ベトナム反戦運動・デモにおいて繰り返されるボブ・ディランの「風にふかれて」やその「アカシアの雨がやむとき」がどうして何度も繰り返し聴くことができるのか、それは、軍歌と違い、歌詞がひとつの意味にしばられすぎていないことだという。

たくさんのデモをやってきて、鶴見さんも虚無感に襲われる。でも、また振り子が別の方向にいく。それと連動する(多分、共振する)ように、「生命の自由なリズムをとり戻す」ような歌が歌われるのだと。

この論稿の最後のところ(p432)に、以下の結びがあって、黙祷しつつ、味わい直そうと思っている。
「その自分の最後の時にも耳の中にかえってくるような歌、つまりそれは自分の心臓のペースメーカーをはたすような歌であってほしい。確実にうち続きながら、かすかになってそのまま死後の世界まで我々を運んでくれるような歌、そういう歌を、今の我々は必要としている」・・・

追加
「現代の歌い手」のところは、限界芸術論として読むとすると、歌謡曲という市場芸術が変容してしまって―替え歌という話もはさみつつ―、政治のデモのとき、そして臨終のときには、もうすでに自分たちの別のもの(限界音楽)として、生きることそして死ぬことのリズムそのものになる。そういうという部分に芸術と生活、生の営みとのマージナル=限界(境界、際)性があるということだろう。


メモ<鶴見俊輔さん死去 悼む声相次ぐ NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150724/k10010164371000.html
<日本の近代化を鋭く論じ、戦後を代表する評論家で哲学者としても知られる鶴見俊輔さんが、今月20日、93歳で亡くなりました。親しかった人たちから死を悼む声が相次いでいます。
鶴見さんは東京生まれで、ベトナム戦争への反対などの平和運動で中心的な役割を果たす一方で、哲学から大衆文化まで幅広い分野で研究や評論などを発表して数多くの研究者や文化人に影響を与えました。>

http://www.asahi.com/articles/ASH7R4DW6H7RPTFC00K.html より
<60年5月、岸内閣の新日米安全保障条約強行採決に抗議して東京工大を辞職。翌年、同志社大教授となるが、大学紛争下の70年、辞職した。作家の小田実らと結成した米国のベトナム戦争に反対する「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)運動を展開した。
 「思想・良心の自由」の信念から、ベトナム戦争からの脱走米兵援助や国外退去処分になった韓国人らを本国送還するまでの期間拘禁した大村収容所の廃止運動、さらに、投獄されていた韓国の反体制詩人・金芝河(キムジハ)氏への支援などに努めた。
 漫画や映画、テレビドラマ、演芸などにも見識が深く、戦後思想と結びつけた独自の大衆文化論を京都を拠点に展開。現代思想、大衆文化論への貢献と在野思想を確立した業績で、94年度の朝日賞を受賞した。
 近年も、9・11米同時多発テロ後のアフガン戦争やイラク戦争、自衛隊の海外派遣に反対し、2004年には平和憲法擁護を訴える「九条の会」設立の呼びかけ人となるなど、活発に発言を続けていた。
 著書に大佛次郎賞受賞の「戦時期日本の精神史」、日本推理作家協会賞の「夢野久作」のほか、「漫画の戦後思想」「限界芸術論」「アメリカ哲学」「柳宗悦」など。「鶴見俊輔集」正・続全17巻にまとめられている。>

鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人 - withnews(ウィズニュース) http://withnews.jp/article/f0150724004qq000000000000000G0010401qq000012291A

京都新聞2015.7.25(土)朝刊25P より
<鶴見さんのまなざしは生活に根ざした大衆文化の中に深く分け入り、関心は大衆文学から映画、芸能、漫画まで広がった。……学生時代から現風研(現代風俗研究会)に参加している斎藤光・京都精華大教授は「鶴見さんが重視した思想は生き方の方向性。先進的な思想ではなく日常の中にある楽しみが社会の大きな部分を形成し、一般の人には映画や小説などが人生の指針になると考えていた」と言う。
<鶴見さん自身、70年代から漫才の研究を始めた。「喜劇俳優を知らないと、『だめだね』と言われた。大きな流れで風俗や文化を捉えていた」(斎藤教授)。このような柔軟な視点は、年賀状や落書きまでも民衆の芸術と見なす独自の「限界芸術論」に通底する。>


by kogure613 | 2015-07-24 21:50 | 研究テーマ・調査資料 | Trackback | Comments(0)

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