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『糸賀一雄記念賞第十五回音楽祭~湖(うみ)のカルナヴァル』栗東芸術文化会館さきら大ホール

2016/11/19(土)

朝、小雨、午後からは曇り。

935分に栗東駅に到着。

『糸賀一雄記念賞第十五回音楽祭~湖(うみ)のカルナヴァル』本番の日、さきらの裏から入る。

大津ワークショップグループのゲネプロが始まっていた。

当日午前中のリハ(ゲネ)を観て、本番を観ると、段取り(機材運びなどのスタッフの転換仕事や照明音響、映像)は同じなのに、演者の顔がものすごく違うことがよく分かる。もちろん、今年は特にだが、小室等さんの提案が多い。声の届き方、マイクをできるだけ、多くの声を届けようとするトライアル。プロゲストのミュージシャンやナントからのダンサーも本番には随分と改良した音、動き。

寝不足だったので、1148分の地震が、自分の頭の揺れと思っていて、帰り、京阪電車の遅れで震度3ぐらいだったことを知る。

2回生ゼミ生は18名の参加(来年度は、また講義科目での参加になる予定。アーツマネジメント論が後期になるはずなので、そちらで)。

当日パンフに『ボーダレスな舞台表現の15年を振り開ける記録集』が合冊。自分も4ページほど寄稿している。

本番のプロデューサーは裏方を担っている感じなのだが(とはいえピアノ弾いたり、打楽器を打ちながらうまくタイミングをとったり大活躍)、今回は後半の最初に、気持ちのいいマリンバなどの演奏があって、クラシック音楽(すこし現代音楽的響きもあり)もいいよねと思わせ、そのあとのバテンつなぎにアコーディオンとケンハモで古典的なポップスの良さを続けるのもなかなかの進行。


今回も色々な発見、進化の形跡、ベテランとフレッシュな演者の錯綜などが観察できた。

特に面白いなと思ったのは、湖南以外のグループでも、踊り的な要素がずいぶん入ってきたことで、そもそも、音楽に身体の揺れはつきもので、ようやく、身体表現と楽器演奏、合唱がシンクロナイズする音楽祭という様相が顕著になってきたわけだ。


竹田裕美子さんって五つの赤い風船とかで自分的にとてもおなじみで、けっこう背丈が低い人だったのねとか実物を初めて観て思ったり、吉田隆一の肺活量ってすごくって、しかもなんだか真剣にやっている(みなさんそうなのですが、彼は特に本番に)なとか、その関わり方が色々なのも面白い。

『糸賀一雄記念賞第十五回音楽祭~湖(うみ)のカルナヴァル』栗東芸術文化会館さきら大ホール 14時から17時少し前まで。

総合プロデューサー(フィナーレでのお話と歌、ギター):小室等

谷川賢作(ピアノ、ケンハモ)

高良久美子(パーカッション)

吉田隆一(バリトンサックス、フルート)

竹田裕美子(アコーディオン、キーボード)

こむろゆい(ヴォーカル、近江学園ワークショップの時など)

野田まどか(ダンス:湖西ワークショップグループの時)

打楽器アンサンブル(中路友恵、清水美紀、改發麻衣、名越美樹、大依紘子、中井萌)

さきらジュニアオーケストラ

ナント市(フランス)からの二人のダンサー:クロード・ブリュマション、アン・ミネッティ


1)大津ワークショップグループ「即興演奏 会話~時々サバイバル」 プロデューサー:清水美紀

2)甲賀ワークショップグループ「Happiness♪ハピネス!!」プロデューサー:林美紀

3)近江学園ワークショップグループ「HERO」プロデューサー:中路友恵

<休憩>15

4)打楽器アンサンブル「吉岡孝悦:3つの舞曲より 第二・第三楽章」

5)さきらジュビアオーケストラ「チャイコフスキー:弦楽セレナーデ」with 湖南のダンサーたち

6)湖東ワークショップグループ「浦島(ヒーロー)、竜宮城へ行く」プロデューサー:清水美紀 アコーディオン:竹田裕美子

7)湖南ワークショップグループ「キノコヤマカラフル(きのこ山から振る)」プロデューサー:北村成美 ゲストアーティスト4

8)湖西ワークショップグループ「翼広げて、空へ~」野田まどか(ダンス)と吉田隆一(サックス)

9)フィナーレ「ほほえむちからを」(作詞:谷川俊太郎、作曲:小室等)を歌おう 全員


<滋賀県内6つの地域で表現活動を行う障害のある人とアーティストが、観客と一体となって表現することの喜びを分かち合う、音楽とダンスのお祭りです。今回は、6つのワークショップグループと、新たな出演団体とともに障害の有無、年齢、表現ジャンルなどの垣根を越えた、ボーダレスなステージを目指します。>

<「この舞台の上で、なにが起きているのだろう?」
障害のある人たちによる圧倒的なパフォーマンス。そのパワーに共鳴するプロの音楽家やダンサー。さらには、障害のある出演者の日常に寄り添う支援者が表現者として同じ舞台に上がり、みんなで踊り、歌う。気づけばボーダーは取り払われ、ステージの上で、それぞれが唯一無二の役割を演じ、創り上げていくこの音楽祭は、どんな人の中にもあるはずの、表現することのよろこびを思い出させてくれる。
今回のテーマは、カルナヴァル。 英語でいえば、カーニバルだ。障害のあるパフォーマー、プロのミュージシャン、またはフランスの文化都市ナントからのゲストアーティスト、さらには地元の方々の参画もあり、多様な人々が響き合い、歓びが躍動する音楽と踊りの一日。>

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障害者実演芸術祭―その特質、魅力、意義について―

1)はじめに―みなさんの「味わい方」は自由です―

 まずは、糸賀一雄記念音楽祭に10年以上、実行委員として、芸術鑑賞者として、はたまた、学外授業の担当者として、何重にもかかわらせていただき、この記念すべき15回目のパンフレットに寄稿させていただくことを、感謝したいと思います。ここでは、障害者福祉については専門外であり、滋賀県内の現場を少し見学させていただいたぐらいですので、地域芸術環境づくりやアーツマネジメント的な側面から考えてみます。

いま、最初から「地域芸術環境」と聞きなれない単語を言ってしまいましたが、栗東芸術文化会館さきらのような自治体の芸術施設と、地域の楽団・劇団・ダンスチームなどの芸術集団、芸術サービス機関(アートNPOなど)、それらを運営する人、モノ、カネ、情報、制度的な仕組みを言います。また、アーツマネジメントとは、担当する芸術をなんとかうまく続けようとする方であるアーツマネージャーさんが行っている日々の営みの集積で、それは、一言でいえば「芸術と社会との出会いづくり」です。

したがってここでは、芸術が私たちの社会、特に地域の人びとの暮らしにどのような形で関わることができるのか、さらに、「実演芸術」の場合の特質はどのようなものなのか、障害のある人たちが主役の「音楽祭」という催し物の企画者の思い、意義や味わい方などをお話したいと思います。

矛盾する物言いになりますが、みなさんの味わい方は自由です。定まった正解はありません。戸惑っている自分自身をも楽しんでください。鑑賞中は、何を表現しているのか、明確なメッセージはあるのか、これは何のためか、何に役立っているのか、とかの理屈は脇においてください(鑑賞後のお楽しみ!)。で、こういうふうに見えたなあ、聞こえたなあと、受け取る側がその鑑賞経験を想起し再編集しましょう。その上で、こういう考え方で企画しているのか、とか、この音楽祭を言葉化するとどうなるの?、というようなことをこれから話したいと思います。

ここでは、芸術についてはあまり詳しくない福祉系の方むけにお話したいと思っています。ただ、芸術系の方の中では、この音楽祭のタイトル「糸賀一雄記念」とは何かしらと思われた方もいらっしゃるかも知れません。このパンフなどを見ていただければ詳しいことが分かりますが、この障害者ファーストである音楽祭に知的障害者福祉の先駆者の糸賀一雄氏を記念するのは、特に糸賀一雄氏の「この子らを世の光に」の立ち位置がこの音楽祭でもとても大切な考え方であるということを申し添えておきたいと思います。

2)音楽、実演芸術の特質

 まずは、障害のある人による音楽祭という特質を考える前に、そもそも音楽祭の「音楽」とはどういうものだろうかというところからはじめましょう。実は、糸賀一雄記念音楽祭では、早い段階で、音楽とともに、音楽と密接な身体芸術であるダンスも取り入れられることになっていきます。では、この実演芸術とはどのような特質があり、その楽しみ方、味わい方は他の芸術とはどんな違いがあるのだろうか、というようなことを考えてみようと思います。

 音楽とは何かを言葉で言うのも変ですが、ここでは、音楽とは、「参加者が楽しめるように音を形にしたもの」と言っておきましょう。まあ、音(雑音も話声も含まれる)の楽(字源では、木に果物がいっぱいあって嬉しいという意味)って漢字であるので、安直な説明ではあります。

でもこれは、鶴見俊輔さんが『限界芸術論』(半世紀以上前の記述ですが、ちくま学芸文庫で入手できます)の冒頭、「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである」という直接価値的(美的)経験の定義ともつながるものです。記号というのは、鑑賞者も楽しめるもの=読解可能なものとみなして、ここでは「形にしたもの」としておきます。

 雅楽には舞楽がありますが、舞楽のほか、バレエやストリートダンス、日本舞踊などダンス全般もまた、舞踊「楽」とみなしうるので、ダンスとは「参加者が楽しめるように身体運動を形にしたもの」としておきます。この音楽祭では、コンテンポラリーダンス(今日を生きる舞踊としかいえないほど創造性豊かなもの)という領域のファシリテーターさんたちに参加してもらっていて、障害者の各人各様の身体の動きを多様なまま、しかも「楽しい形」に編集、構成してもらっています(もちろん、思いがけない即興的イベント、創発的アクシデントを含めて)。

3)「◯◯祭」のアーツマネジメント意義

 音楽、演劇、ダンスなどの実演芸術は、実演する人のほか、鑑賞する人、観客や聴衆がそれを享受してはじめて完成します。一期一会の世界です。記録はとれますが、絵画や彫刻、映画のようには保存できません。再度同じ公演を鑑賞することができる場合もありますが、まったく同じ実演になることはありません。記録再生できる電子機器やコンピューター、インターネットの発達でライブ以外の楽しみ方は特に音楽では大きいのですが、ここではライブ音楽にしぼります。特に障害者による音楽はライブ性が際立つこと、複製技術が効かないということもいえます。

また、メディア化された実演芸術のほか、絵画や彫刻、映画など視覚芸術においては、何度でも同じ創作物を鑑賞しようとすればそれは可能ですし、創作者は、鑑賞者がいない段階でも、その芸術作品を完成したということはできるかも知れません。小説などの言語芸術も再度の鑑賞、保存という面では視覚芸術と同じと考えることができます。一言でいえば、実演芸術は、原理上、採算の取りにくいナマモノとなります。とりわけ、メディア化されにくい先端的な芸術であるとか、知名度がなく、あらかじめの宣伝がきかない、即興性が命である公演の場合は、解決すべきマネジメント上の課題、つまり、アーツマネージャーさんの仕事が山積しています。

そうです、アーツマネジメントの意義はそこにあります。保存のきかない実演芸術においても、より多くの人に、あるいは、少数でもそれを必要とする人にその芸術を届けようとするのがその使命です。そのために、イベント化、フェスティバル化における非日常性の演出が必要になります。具体的には、音楽祭(ラ・フォール・ジュルネなどが成功例)や演劇祭などですね。ロックフェスというのはそのなかでもとてもポピュラーなもので、集積のメリットを最大限生かして、日頃特定のバンドしか聴きに行かない人や、なんかお祭りは楽しいから来たぜというニューカマーたちを集客することに成功しているようです。

「祭」とつくと、昔からの宗教的・習俗的なお祭りが連想されます。神社のお祭りや伝統行事と同じく、地域の公共性との接点が強くでます。応援したいのは、実演芸術なのか祭の方なのか。どちらも選べるところがミソです。特に、祭といえば、燃える文化遺伝子をどうもヒトの多くは持っているようです。寄付やお賽銭、投げ銭。祭り会場での飲食、グッズは日常は財布が硬い人びとも記念という付加価値がその紐を緩めるのですから面白いものです。

4)市場原理では回らない音楽祭運営の課題と挑戦

ライブの実演芸術でも、ポピュラー音楽やストリートダンスライブなど市場原理でなんとか成立しうるジャンルとは違って、先端芸術やこの糸賀一雄記念に登場する障害者芸術団によるライブにおいては、団体が集まれば、関係者数は増えますが、どの集団ともかかわりなく、この音楽祭の魅力そのものによって観客に来てもらえるためには、多くの仕掛けが必要になります。

また、鑑賞料や記念グッズ販売だけでは採算が取れません。市場原理では回らない芸術なのです。企業からの協賛や行政からの支援を受けるためには、関係者だけではなく、開かれた多様な人たちが一定数集まってくるだろうことが前提となりますし、説得材料が必要になります。

そのためには、プログラムの工夫がまず必要です。コンテンポラリーダンスを取り入れたり、フランスのナント市との交流などを通じて、この音楽祭自体がかなり先端芸術を含み、かつ障害者ライブ自体に先端芸術と同じ何が起きるかわからないという予測不可能性という特質を持つために、いささか、ポピュラリティのある世界との融和が課題となっていました。

そのなかで、総合的なプロデューサーとして、ふところの深い音楽家の小室等さんを起用したことは、フォークソング世代を惹きつけ、行政の担当者、企業の支援者にも安心感を与え、一定の効果が生まれています。また、一緒に歌える曲を創ることは大きな進歩だったと思います。さらに、障害のない子供たちのオーケストラが参加することで、障害者との交流を通じて、子供たちの障害者芸術への理解も進むでしょうし、その保護者などへも伝わることでしょう。

他方、コンテンツの充実に対応して、逆説的にはなりますが、映像化して配信することとか、ニュースに取り上げてもらうこと、SNSの活用、また、ワークショップを公開したりするという広報宣伝活動がうまく軌道に乗って、双方向的で自発的な盛り上がりが生まれたらいいなとも思います。メディア化された実演芸術に触れることで、メディア化されないライブにぜひ行きたいと思わせるような仕掛けも大事な課題でしょう。

5)「見たことのないものを見たい」の世界へ

 最近、私は、アーツマネジメントについて、その担い手であるアーツマネージャーの意図を5つに分類して発表しました。第一は社会提供動機「見たいものが見たい」です。滋賀県では見られないけれど、東京圏では評判の公演をみんなに見てもらおう、とか、アウトリーチで入院している人たちにコンサートを届けようというタイプの動機で、地域格差の是正という公共的意義やアウトリーチ活動の多くはこれです。この音楽祭でも、この音楽祭に集まってきた障害のある人たちが鑑賞する機会は少なく、この第一の動機を満たしています。公共施設においては、基本は、市場原理では採算がとれないものになります。

 第二は継承復活動機「見られなくなったものを見たい」というもので、伝統芸術の公演の多くはそれになります。糸賀一雄記念音楽祭における和太鼓や西洋クラシック音楽というのもこれに近いですね。第三が時代批評動機「見たくないものも見よう」という世界で、典型的には、社会の暗部を照らす演劇などが代表事例です。ドキュメンタリー映画ではこの領域がとても重要になります。障害者という存在自体を見たくないと思う人はこの音楽祭に来ることはないでしょうが、やはり、障害者の姿とその表現を見る機会が少ない現在、この動機もまた音楽祭にはあると考えられます。

 第四が、新規創発動機「見たことのないものを見たい」という動機です。アーツマネージャーは、他地域で行われている芸術の紹介だけではなく、この地域、この芸術場で生まれる新しい芸術に立ちあいたい、まだ見ぬものを一番初めに目(耳)にしたい(いままで「見る」と言ってきましたが、これは「聴く」も含まれます)わけです。私は、アーツマネージャーの醍醐味は、特にこれにあるのではないかと思っています。糸賀一雄記念音楽祭での各地のワークショップでは、数多くの創発の種があり、それが音楽祭で発芽し、何年かして花開いています。どんな花なのかは、この場でしか確かめられない。接ぎ木もできないものもあるし、うまく散種できるものもあるのかも知れません。

 最後は、限界芸術動機「見過ごされているものもしっかり見よう」というもので、実は、音楽祭当日よりもワークショップのそれぞれに、限界芸術的なしぐさやフレーズなどが豊富にあり、それをファシリテーターはじめ参加者がしっかり見ることで、新規創発的な芸術を可能にしているのではないかと予想しています。またこれについては別の機会にお話したいテーマですね。

 以上、障害者実演芸術祭の一つである糸賀一雄記念音楽祭について、主にアーツマネジメント的側面から、その特質や魅力、課題、意義などをお話しました。では、みなさんと一緒に、いつも数多くの驚きを与えてくれるこのライブを心ゆくまで楽しみたいと思います。

小暮宣雄(京都橘大学)


by kogure613 | 2016-11-19 22:31 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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