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フランシス・フォード・コッポラ『カンバセーション…盗聴…』

2017/2/28(火)

11時にゼミ生が来て、履歴書などに自分が所属する学科のことやゼミのこと、自分の研究や力を入れている科目などをどう相手方に表現したらいいのかと相談される。

いろいろといまの就活の事情なども話すのでなかなかに興味深かった。

15時から部長会。

帰って録画していた映画『カンバセーション盗聴を観る。録音装置などがとても懐かしく、でも本質的なこと(盗聴者、スパイの孤独や危険)は変わっていないのだろうなとか思いつつ楽しむ。

フランシス・フォード・コッポラ(脚本や製作も)『カンバセーション盗聴』(1974年、113分、パラマウント映画。The Conversation

ジーン・ハックマン、ジョン・カザール、アレン・ガーフィールド

フレデリック・フォレスト、シンディ・ウィリアムズ、ハリソン・フォード

ウィキペディアより

<サンフランシスコ在住の盗聴のプロフェッショナル、ハリー・コール。通信傍受の権威としての輝かしい名声とは裏腹に、彼の私生活は孤独そのものだった。それは他者の秘密を盗み聞きするという盗聴という仕事を生業にしていながら、ハリーが自らのプライバシーの保持に異常に気を使っているからだった。そのためにハリーは、彼とより親密な交際を求める恋人とも別れる羽目になってしまう。そんな彼にとって唯一の心の支えは、厳重に外部から隔離された自室で、ジャズの調べに合わせてサクソフォンを演奏することだった。

ハリーはある日、大企業の取締役からの依頼を受けて、雑踏にまみれたユニオンスクエアで密会する若い男女二人組の会話を盗聴する。一見すると他愛の無い世間話に見えた二人の会話だが、そこに不審なものを感じたハリーは依頼人の補佐役に対し、録音したテープの受け渡しを拒否する。依頼人のオフィスからの帰り道にハリーは、公園で盗聴したカップルに遭遇する。例の二人組は、実はその会社に勤めていた社員であり、女の方は依頼人の妻だったのだ。>


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森友学園国有地売却案事案はずいぶんテレビなどにも報道されるようになった。

もちろん、共謀罪法案も控えているし、色々気になる国会ではあるが、この際、日本会議などの動きがより詳細に国民に届くといいなと思っている。


『阿片王』をようやく読み終えていたので、気になるところを抜書きしておく。

佐野眞一『阿片王満州の夜と霧』(新潮文庫、2008年、単行本2005年)よりの抜書き

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 大物政治家から将官クラスの高級参謀、満州国のエリート官僚から辣腕ジャーナリスト、はては身分を決して明かさない特務機関員から得体の知れないごろつきまで、底知れない闇を孕んだ広大無辺の人脈を築きあげた里見甫(はじめ)は、どんな人生を送り、「阿片王」と呼ばれるまでになったのか。
 里見甫は明治291896)年121日に生まれた。
 戦後、A級戦犯で逮捕され、GHQ国際検察局の尋問では、出生地は秋田県の能代だと答えている。

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そして、二・二六事件が起きる一ヶ月前の、昭和111936)年1月、電聯合併による同盟通信の発足をみることとなった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。

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 その後、電通と同盟の間で、電通は通信とニュース写真に関する事業を同盟通信社に委譲する、電通は広告専門部門を引き継ぐといった内容を主旨とする契約が取りかわされた。
 戦後、同盟は共同通信と時事通信に分割された。一方、広告専門会社となった電通には里見(甫=この本の主人公「阿片王」)の息のかかった元国通の社員たちが戦後、大挙して入社し、今日の電通の隆盛を築く礎となった。国通を立ちあげた里見は、現在の日本のメディア体制の基本的枠組みを満州でつくったともいえる。
「阿片王」といわれた里見の業績は、アヘン販売による独占的利益を関東軍や特務機関の機密費として上納する隠れたシステムをつくりあげた点に目が向けられがちである。だが、現在への影響力でいうなら、それよりもむしろ、今日の共同通信と電通を発足させる引き金となった国通設立に尽力したことがあげられる。
 見逃してはならないのは、ここにも、満州の地下茎が戦後日本に延び、その上に現在の日本の通信、広告の帰趨をなす陣容のプロトタイプが築かれたことが瞥見できることである。

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 里見はその後の(GHQの)取り調べで、アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、三分の一が南京政府の財務省に、三分の一がアヘン改善局の、残り三分の一が宏済善堂(里見甫の会社)に分配されたこと、ペルシャ湾アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だったこと、上海には常にアヘンを必要とした人間が人口の約3パーセント、実数にして10万人いたことなど、きわめて重要な事実を洗いざらい告白している。

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 戦後、電通や民間放送局が驚異的な成長を遂げることができたのは、一つのは、GHQの公職追放により、戦中の企業組織を牛耳っていた旧世代のボスたちが一掃され、それにかわる世代が若いうちから経営の第一線に立たされたからである。その大きな供給源の一つが、里見がつくった国通だった。

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 昭和401965)年321日午後1150分、里見は新宿区西五軒町の借家で、家族と談笑中、心臓麻痺に襲われ、そのまま不帰の客となった。69歳だった。戦後ずっと信心していた熊本の祖神道本部から帰郷して二日後の、突然の死だった。
 戦前、戦中から戦後までのびた満州、上海の空前の人脈を物語るように、通夜は三日三晩つづいた。贈られた花輪のなかには、満州と上海で浅からぬ関係にあった岸信介や佐藤栄作からの花輪もあった。
・・・・・
 里見の遺体が荼毘に付されたとき、会葬者たちは、里見の頭蓋骨が淡いピンク色に染まっていることに気がついた。しかし、それが阿片常習者の特徴だということに気づく者はほとんどいなかった。



by kogure613 | 2017-02-28 22:57 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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