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AI・HALL+岩崎正裕共同製作『フローレンスの庭』(作:高橋恵、演出:岩崎正裕)

11/30(金)
少しゆっくりとして、高校へ。
お祭り調べの残りと、絵本ワークショップ。図書館に行くとパソコンの前に群がっていて、ざわざわ。聞くと今日「たち大」(京都橘大学のことを高校ではこう言う)の推薦入試発表なのだそうだ(こちらは、水曜日で決定したところまでは知っているが、その出口をこうしてみるというのも奇妙な感じ)。

一度家に帰って昨夜いけなかったAI・HALLへ。環状線が人身事故という放送を聞きながら東西線。
19時開演で岩崎正裕演出なのでたぶん2時間ぐらいなのだろうと思ったら、19:07(館内放送で前説だったりして19時ジャストから次第にお芝居へ)~21:47(20:25から10分の休憩)。150分なのだが、それでも言い足りないぐらい、社会性に富んだすばらしい舞台だった。25才以下をユース料金として前売りなら1800円と、映画料金並みに抑えているのもまたさすが!と思う(客席にも20歳代世代の人たちが多く、ひょっとしたら看護学校とかの関係者もいて、いままで演劇に触れなかった開拓にもなっているのかも知れない)。

大相撲の不人気について、実はこの1,2年前で底を打ったと元NHKアナウンサーが言っていたけど、演劇も同じようにちょっと前に底を打っていて、いまは少しずつ蘇ってきているのかも知れない。拍手のあと明かり消え、すすり泣きが続く客席の客電が灯るAI・HALL+岩崎正裕共同製作『フローレンスの庭』(作:高橋恵、演出:岩崎正裕)、まだお芝居の余韻の残る看護学校における白い中庭の渡廊下とベンチ、椅子を眺めて、そう思う。

たまたま、加賀野井秀一『日本語の復権』(講談社現代新書、1999、p118~120あたり)を読んでいて、時枝誠記言語過程説における「詞」と「辞」のことが頭に残る。「詞」とはたとえば「花」で、物事を指し表わす単語であり、一方、「辞」の典型は、助詞や助動詞など、つまり、テニヲハである。フッサール的に言えば、「詞」がノエマ(志向対象)で、「辞」がノエシス(志向作用)、つまり、「なにものかについて」意識が向かうのだけれど、その「なにものか」がノエマで、「について」がノエシスというわけ。

「花ですね」なら、「花」が詞で「ですね」は辞である。詞は客観的な叙述であり、他方、辞は主観的な感情の機微を現す。「花なのね」と「花ね」では丁寧さが違い、「花だ!」では相手がいないこともある。「花やんか」「花ちゃうの」は関西人を想起させ、その舞台の空気が特定する。
「花は好き」と「花が好き」でも話し手のニュアンスが変わり、助詞を動かすと、「花を好く」人が好きで、「花で“好き”を伝え」、「花へ“好き”という思いを寄せつつ」、「花に“好き”かどうか占い」、いつの間にか「花より団子」に移ったりする。

おっと、前振りが長くなりすぎた。言いたいことは、昨今の演劇(私が触れるものなのでだいたい関西でしかも小劇場系)、どうも「辞」偏重になりがちで、「詞」へのこだわりが薄まっていたようにこの数年思っていたということ。そこには、方法論や関係性論ばかり操り、あれこれ細分化された衒学的論議や微細なニュアンスの好悪論などが、時にはもったいぶって、時には洒脱に説かれたりするのだけれど、辞が向かうべき肝心の「詞」が、まあいえばなんでもいいということになってしまう傾向がいつもあって(日本文化はそうなのだからそれでいいという考えもあるにはあるが)、この数年はそれが顕著だったのではないかと。

そういう面で、今回遭遇したこの看護学校と看護師の世界を丹念にインタビューし観察した後に出来た高橋恵の台本には、「詞」が豊富で、もう実に溢れるばかり(20数人がコロス的処理ではなく主人公とその相手方という焦点はあるとしても、丹念に一人ずつ「詞」として粒立つ)。

そのため、150分のステージからこぼれてしまわないようにするための処置として、主人公によるナレーター的な部分もあったのはないかと思えるわけで、それが「辞」としては少し古めかしいかなといったん頭を掠めたとしても、内容が進めば、「詞」の豊穣さの前に、まったくそれらは気にならないようになる。遠くにいる子や親、そして死者まで登場人物としてあげれば、その数はもっと多くなって豊穣さは時間のあるなしを巡って複線化し・・

とはいえ、「辞」としての演出が磨かれることは常に必要だが(だから、この前みた遊劇体の様式美に打たれるのだが)、そればかりではなく、もっともっと演劇における「詞」の開拓、冒険(あるいは、既存の戯曲の再発見+再解釈も含めて)があるのだなあと観劇後感じてじつに嬉しくなる。

じゃあ、同じように舞踊でもそうなのか、舞踊の「詞」とは何なのか、これもまた見えてきたら(身体の内部エネルギーみたいなものかなあ?)、また舞踊に自分が向かう気力が生まれるのだろうと予感はするのだが、さて。(最初、ダンスと書いていて、舞踊と直した。直すと舞踊をこれからは観るという気持ちになるから不思議。舞踊なら詞が見えるかも、とちょっと思えたりもした。カタカナ語は「アンダースタディ(代役)」というこの前の燐光群のお芝居を思い出してもいて)
by kogure613 | 2007-11-30 23:25 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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