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黒沢清『CURE』&ジョン・マッデン『恋におちたシェイクスピア』

10/29(水)
風邪だ。寒気と頭痛。
教務課に電話して、ひとつ会議を休ませてもらう。

一番すべきことをしないでいる一日・・・

同志社院から手紙あり。レポート課題の提出について。課題を考えて打ち出しておく。
明日に配るペーパーを作る。そこまでいくかどうかわからないが、ものすごく基本的なものをつけくわえる。
文化(アーツ)と行政(政治)の関係・・・5パタンについて・・・

あとは、ベートーヴェンの後期のピアノ曲を聞いたり、ユーロの値動きを気にしたり。
夕方、書くべき原稿の始まりをさぼって、黒沢清『CURE』(1997年、111分)を家人と見る。
家人は、ホラーではないので(一応、サイコ・サスペンス)、何とか見られたようだ。

黒沢清『CURE』封切のとき、京都のいまはたぶんなくなってしまったかも知れない映画館(古く大きなスクリーンでがらんとした印象あり)で、何もいえないぐらい1回目が特にがーんとなって、再度続けて観たのを思い出す、映画館の古い赤いシートとか、待合室の暗がりとかとともに。
私にとって、この鑑賞が黒沢清監督へのイメージを変えたし、邦画自体への見方が多様になった大切な作品だった。今日、ホームビデオで見て、あんまり古くなっていないことがうれしかったし、それ以降の黒沢映画との響き合いもまた楽しめた。たとえば、バス(客は自分たちのみ)の使い方。赤い服がクリーニング屋にかかっているところ、などなど。

1998年の監督のインタビューも参考になる。http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/kUROSAWA.html

夜、やっぱり、映画(一応、シェイクスピア時代の劇場について、ビジュアル的に楽屋とか客席とかがよく描かれていて、授業に使えそうなので、サボっているだけではないと自己弁護しつつ)。面白かったな。きれい。女性が青年に扮するというのは、宝塚みたいで、好きだな。アメリカ映画。
ジョン・マッデン『恋におちたシェイクスピア』124分、1998年。
江戸時代より少し前だが、歌舞伎と同じく、女性が役者になることができないことなど、比較してみるとなかなかに面白い。

◎ 『境界知のダイナミズム』p215
野家(のえ)啓一物語の哲学』の紹介があって、以下のことが書いてあった

語る←象る(かたどる) これが本当に語源かな?

経験=験し(ためし)を経ること

《・・語りとは個人の経験を象り、言語的ネットワークを介してそれを共同化する運動であろう。「儀礼」と通じ合うものがある。経験を伝承し、共同化する言語装置を、野家は「物語」と呼ぶ。》
by kogure613 | 2008-10-29 17:50 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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