5/21(月)
金環日食ということで、木漏れ日とともに少し太陽をチラリ見。
太陽の形を意識することはこういうイベントがないとなかなか意識できないものだが、卒原発時代には格別の意識になりうるのかも知れない。
雑談しているうち、自然の交配の神秘ってすごいし、遺伝子によらない文化というものも、遺伝子がその空白を創ったというふうにいえるのかも知れず、文化の消去法的定義ってまだまだやなあとも思ったりする。
朝の電車の中で、珍しくメモ:かえっこバザール原論。以下、そのメモをベースに書いておく(ゼミは2つ、どちらも比較的順調)。
かえっこバザールは、作者(考案者)として芸術家・藤浩志さんがいるからということとは別にして考えると、それ自身がクリエイティブな活動であることは違いないとしても・・・
基本的問い
かえっこバザールという仕組みそのものが芸術(アーツ)そのものなのか?
それとも、各種アーツ(主に限界芸術)を参加者に各様に誘発する「芸術場」形成シーズなのか?
推論1
現代美術における芸術概念拡張性や前衛性、既存概念の反転性・否定的脱構築性などからすると、新しいアーツとして新たに形作られたと見ることができる。藤さんはかつてアートOSという言い方をしていたが、OSアーツという拡張概念(コンセプトアートやパフォーマンスアート、インスタレーションによる現前)や、「コミュニティアーツ」(地域地区共同体まちかどがアーツと響鳴共生的にある一週の社会彫刻的芸術の一つ。
推論2
芸術営的に見ると、子供たち、スタッフなど関係者それぞれの限界芸術心が刺激誘発され、自由な表現へと開放され進化していく芸術場づくりの環境ツール(環境デザインの種=シーズ)とみることもできる。
(一応の結論)
作曲者が五線譜のような指示がかなり具体的で確定的な楽譜ではなく、もっと抽象的な枠組みを創っただけの作曲譜のようなものであるが、かえっこバザール自体も「芸術物」とみなされる。ただし、生産財(B to B)のようなものなので、実際の展開はアーツマネージャーやコミュニティリーダーたちに委ねられている(自由でルーズさがあるプラットフォーム的なもの)。
抽象的な説明とすると、
様々な目的で様々な主体がそれを“つかう”ことを想定している、まちつかい・環境デザインなどに寄与する交通の場・拠り所としてのアーツ。
ただし、そのかえっこ環境にいることで、各人のアーツ創作意欲や参加意思が蠢くものであり、それによって、かえっこアーツ自体も変化成長していくOS的芸術環境場としての役割を副次的に持つもの。
次に遡って「芸術」とは
個人の自由な感性的表現の術(文化)。
(なお、術とは、生活文化、制度文化を刷新していくことができる専門性を持った「術師」が担うもので、学術、技術、学術に大別される。)
「芸術場(アーツプレース)」とは、
個人の感性的表現により広範な自由さを加味することができる芸術表現と芸術交通、芸術享受の環境。
「芸術物」とは、
創作者(+制作者など)が、芸術の享受者に届けることができる形態になったもの。
芸術を社会、鑑賞者(予備)へと届けるときには、何らかの移動可能であることが必要(反復可能なこともかなりの程度に必要)である。そのためには、何らかのユニット化、パッケージ化が必要になり、それを「芸術物」と呼んでみると、芸術物は形状から、有体(有形)芸術物と無体(無形)芸術物に分けられるとともに、別の尺度として、その市場性・商業性の濃淡によって、芸術商品と芸術作品という風に分けることができる。

