OCT/PASS『風来~風喰らい 人さらい~』精華小劇場&村上隆『芸術闘争論』
2011年 02月 25日
22/25(金)
精華小劇場で、仙台の元十月劇場(劇団名は大好きだったIQ150とともにずっと聞いていた)、Theatre Group “OCT/PASS”vol.32『風来~風喰らい 人さらい~』(作・演出:石川裕人:100作品創っているそうだ!)を楽しむ。19:32~21:19。まずもって、前説の女性の声が通ること。こんなに演劇的な前説は関西ではとんときかない。拍手を思わず会場がしたのも致し方なし。
あまりにも、いい声で、しかも、駄洒落がどうしてもぼくにはぴんとやってこないこともあって、正直、はじめのほうは、しんどいような気持ちにはなったが、どんどんその面白さが分かってくると、フナ寿司が病みつきになる感じかも知れない。というのは、小澤一郎とか、一番ぐっときたのは、井上やすし!で、そこのは、東北の風がある。
おお、風。自転車。風力と原子力。現代詩と現代演劇はともに滅んだのかどうか。
風は文化である。10年間文化がないくに、にっぽん。そこで風灯台をたてている男。その娘、妻、母、息子。風は待つだけなのかどうか、地域創造(笑)!
午後は、二つの会議。卒業判定など。
午前中は、研究室の整理(ごみすて)と、すこしの読書など。
杉本博司『現な像』(新潮社、2008年)は、ぽつぽつと味わって読んでいて、さきに、あとから読み出した、アジっぽい(笑)村上隆『芸術闘争論』(幻冬舎、2010)を読み終える。
ルールに基づく表現によって芸術が発動するという(欧米のアートルールによって闘うのがアーティストなり)のは、じつにぼくもずっと大昔から考えていたこと、つまり、法の下の自由というテーマとつながっている。つまり、ぼくみたいなアーツ的人間が法学って意外と面白いと思った頃からのテーマ。
それと、歴史の重層化とレイヤーの串刺しというコンテンツの極意(構図、圧力、個性、そしてコンテンツ)は、個性があとからついてくる(なくてもそこそこやっていける)という話でもあって、日本の型から学ぶ古典芸能と通じてもいる。
この本が、前の芸術起業論(でよかったかな?いい加減な記憶)と比べていさかか散逸的で断片的なのは、いまのソーシャルメディアと同じだし、それがベースなのだろう。でも、アドヴァイザーというのが現代美術業界では暗躍しているという話があって、最後のこんな文章とをぼくはかってにつなげて面白がっていた。
「日本の若手アーティストたちには日本の地方自治体が町おこし村おこしの予算をあてがって、意外や意外、けっこう楽しくやりはじめていたのです。」p288、あとがき。
村上さんたち現代美術の人たちは、アーティストといえば、現代美術界の人たちだけなのだなあと改めてしみじみ。まあ、それはどこの世界でも同じなのだろうな。話は違うが、オタグ業界にいけなかったドロップアウトした人たちが、仕方がなく美大にいって、アーティスト予備軍になるのだというところなどは、けっこう、新鮮だった。
精華小劇場で、仙台の元十月劇場(劇団名は大好きだったIQ150とともにずっと聞いていた)、Theatre Group “OCT/PASS”vol.32『風来~風喰らい 人さらい~』(作・演出:石川裕人:100作品創っているそうだ!)を楽しむ。19:32~21:19。まずもって、前説の女性の声が通ること。こんなに演劇的な前説は関西ではとんときかない。拍手を思わず会場がしたのも致し方なし。
あまりにも、いい声で、しかも、駄洒落がどうしてもぼくにはぴんとやってこないこともあって、正直、はじめのほうは、しんどいような気持ちにはなったが、どんどんその面白さが分かってくると、フナ寿司が病みつきになる感じかも知れない。というのは、小澤一郎とか、一番ぐっときたのは、井上やすし!で、そこのは、東北の風がある。
おお、風。自転車。風力と原子力。現代詩と現代演劇はともに滅んだのかどうか。
風は文化である。10年間文化がないくに、にっぽん。そこで風灯台をたてている男。その娘、妻、母、息子。風は待つだけなのかどうか、地域創造(笑)!

午後は、二つの会議。卒業判定など。
午前中は、研究室の整理(ごみすて)と、すこしの読書など。
杉本博司『現な像』(新潮社、2008年)は、ぽつぽつと味わって読んでいて、さきに、あとから読み出した、アジっぽい(笑)村上隆『芸術闘争論』(幻冬舎、2010)を読み終える。
ルールに基づく表現によって芸術が発動するという(欧米のアートルールによって闘うのがアーティストなり)のは、じつにぼくもずっと大昔から考えていたこと、つまり、法の下の自由というテーマとつながっている。つまり、ぼくみたいなアーツ的人間が法学って意外と面白いと思った頃からのテーマ。
それと、歴史の重層化とレイヤーの串刺しというコンテンツの極意(構図、圧力、個性、そしてコンテンツ)は、個性があとからついてくる(なくてもそこそこやっていける)という話でもあって、日本の型から学ぶ古典芸能と通じてもいる。
この本が、前の芸術起業論(でよかったかな?いい加減な記憶)と比べていさかか散逸的で断片的なのは、いまのソーシャルメディアと同じだし、それがベースなのだろう。でも、アドヴァイザーというのが現代美術業界では暗躍しているという話があって、最後のこんな文章とをぼくはかってにつなげて面白がっていた。
「日本の若手アーティストたちには日本の地方自治体が町おこし村おこしの予算をあてがって、意外や意外、けっこう楽しくやりはじめていたのです。」p288、あとがき。
村上さんたち現代美術の人たちは、アーティストといえば、現代美術界の人たちだけなのだなあと改めてしみじみ。まあ、それはどこの世界でも同じなのだろうな。話は違うが、オタグ業界にいけなかったドロップアウトした人たちが、仕方がなく美大にいって、アーティスト予備軍になるのだというところなどは、けっこう、新鮮だった。
by kogure613
| 2011-02-25 16:27
| こぐれ日録
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