大蔵流狂言『果争(このみあらそい)』 セルジュ・チェリビダッケ『ブルックナー交響曲』
2012年 08月 24日
高校野球も大阪桐蔭高校の優勝で終わったし、中日負けて巨人が勝ってマジックもついちゃったので、僕の夏休みもそろそろ終わり。
ほんとに知らないこと、聴いていないもの、読んでいない本などが多すぎて困る。
とはいえ、目の前にある購入したDVDや本を少しずつ片付けないとなあ。
ということで、やくぺん先生のブログで、生誕100年を母国ルーマニアにて盛大にお祝いされたというベルリン・フィル物語では、なんか、とても悲劇ちっくだけれど、フルトヴェングラーとカラヤンの間のエピソード扱い的にしか知らなかったセルジュ・チェリビダッケの映像を楽しむ。
アントン・ブルックナー交響曲第9番ニ短調。トリノRAI交響楽団、1969.5.2のライブ収録。
とはいえ、第一楽章を聴いてぐったり。やっぱり、テンポが慣れていないからだろうか。いや、実はブルックナー音楽をそんなに聴いていない自分だからか・・・すこし休憩して第二楽章にはずいぶんとはまって、指揮棒の三拍子の刻みにびりびり、かってに当時のロック音楽じゃんっていう気持ちになってしまう。ゆったりとした第三楽章がおわって、このあとの第四楽章に思いを致す・・
あと、自然居士と一緒に録画していた、茂山家と善竹家合同の大蔵流の狂言『果争(このみあらそい)』を楽しむ。金剛能楽堂での録画(1/28NHK放送)。
これはゆるキャラの元祖みたいだし、お花見というイベントを扱っていて、お花見で宴会イベントに歌舞が伴い、しかも、歌を詠むという文芸イベントもあるのである。一方の女性的というか公家的な橘の精はじめ柑橘類組6人組と、橋掛かりにズラッと並ぶ栗の精はじめ武士的で乱暴者的な6人組の対比が面白い。
殺陣(たて)がないと大衆芝居は持たないという話をこの前聞いた所だったが、お芝居にもスポーツ的な争いがあると、実際の戦争や殺戮の模擬としてのカタルシスがあるということは事実。
『果争』は狂言らしく、終わり方がかわいい。
負の循環である復讐と生の循環である贈与。その境に、供犠があるというような本を読み始めている。互酬性の正への転換がアーツプレゼント(芸術贈与)と考えられないかという仮説を少しずつ。