歌い手ひがしのひとしさんの京都新聞提言 映画『誰も知らない』
2005年 02月 15日
けっこう、いろいろあって面白いが、今日はとりあえず、19本を早送りせず見ておく。5~6時間はありそうだ。明日は、研究室にテレビデオ(2万円で買っておいたもの)が届くと思うので、ずっとこもって視るつもり。
朝食後、芳江がごみを捨てに行って、京都新聞を見ながら戻ってくる。昨日、寝屋川市の小学校で怖い事件があった、といいながら。京阪沿線でもあり、身近な感じ。17歳の引きこもりの青年か。
その6面にひがしのひとしさんの提言が載っていた。そういえば、はなが言っていたという。さっそくはなに電話。でも留守電だった。以下、彼の文章を一部引用する(余りにも、今日の1面の事件と連動することがあって、偶然とはいえ、気持ち悪いぐらい。時代が唄とからだ、こころにつながっているという思いがよく出ている文章ですねえ)。
《ここ十数年、ヒトのカラダとココロに係ることで生活の糧を得ているが、若い人たちのココロとカラダの傷の深さには眼をおおいたくなる。いきものとしての根源的な部分で深く傷ついて、その傷に互いに触れるのが嫌で、見事に距離感を保っている。
《唄であれ何であれ、彼らの表現にはその等距離感が見事なくらい素直に出ている。だが傷に触れない表層的な共感を得るために書かれた心地よい唄は、なぐさめにはなり得てもその等距離感を突き破ることはできない。・・・
《深い傷に届く深い唄。深い傷から立ち現れてくる唄。唄い手でありたいための唄ではなく、聴くための唄。聴くことが同時に唄うことであり得る唄。軽々と等距離感を突き破る静かな力を持った才能。・・・・》
滋賀会館シネマホールへ。滋賀会館も含めて、県立ホールは大変だ。それは、びわ湖ホールを近畿圏対象にどーんと造ったときから分かっていたことでもあろう。『珈琲時光』(ホーシャオシェン)もその前にやっていたが、疲れそうなのでやめた。今日は火曜日で1000円。上原さんが「珈琲時光」を見ていた。やっと『誰も知らない』(是枝裕和)を見る。思っていたより平凡な映画(たとえば主人公のお兄ちゃんの闇が描かれていない)。空調の噴出しの近くに座ったため、寒くてそれもよくなかったかも知れない。前半が特に手持ちぶさたな進行。
それでも、いろいろ考えた。
ひきこもりとひきこもらされることの異同。少年期の恋の屈折。ライフラインが止められると、野宿と同じようになっていく子どもたちだけの部屋の変化。野宿者の大人すらいない子どもたちだけの世界・・・
葬式ごっこと違法=リアル埋葬、スーツケースのつながり、コンビニ万引きが仲間意識と連動するところなど、141分の中に記号論的な分析素材がいっぱいで、実に理知的な作品批評が出来るなあとも思う。子どもたちのみを主人公にしているし、中学生世代を考えるのに、欠かせないドラマであることは確か。それにしても、とても綺麗でいい声の挿入歌(タテタカコ「宝石」彼女はとてもドジで優しい店員を演じています)のコードやメロディーが余りにもオリジナリティがない(演歌の世界と全くおなじタイプ)のが、この映画自体の主題と関わっていて、やけにココロに残った。
大阪成蹊大学での授業で「誰も死なない」(トーン・テレヘン)を朗読するときに、黒板に間違って「誰も知らない」と書いたことを思い出す。知らないことで名前がなくなり、死をもたらす。そう、埋葬は抹殺して死んだことにすることで名前をなくすことでもありうる(葬式ごっこによるしかとするいじめ)。が、一方、埋葬行為としての葬送は、応答しなくなった死体を葬る過程において、死んでもなおその名前を墓に刻み、生きている者と死者がつながるための儀式のことでもある。