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菊地信義『装幀談義』より

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昔あったのだが、探しても見当たらないこともあり、もう一度購入して、文学のアーツマネジメント(筆者は「誘惑術」と帯で示している)という目線で、装幀を考えるというポイントに絞って読み直す。
菊地信義『装幀談義』(筑摩書房、1986年)。まだ、1000冊ほどの装幀をしたという時代(『新・装幀談義』の頃になると一万冊を超えている)。本のタイトルも「義」で脚韻を踏んでいるなとか、花布が表紙の色とスピンの色の二色になっているな、とか、しみじみと手の中の劇(ドラマ)として楽しむ。購入したくなる本もいくつかまた出てきてしまう。それも装幀を愛でるためだけに・・

最後のところを引用:
p177
…本という一つの物は、人を読むという行為に誘う、一人の読者に、読んでみたい、読みたいなという思いを呼び起こすものじゃなければいけないわけですね。そして、真の読むという人の行為は、何にも求めない状態、読み終えたあとに何かを得たとか、何かを知った、それすらもない、ただ読んだということで完了するものだと思うんですね。
 そのような読書という行為が、またそのように読むことを純粋にしていく書物が人にもたらすものは、その人の実生活の中で、真に個々の体験を切り開いていく力、現実を開示していく力だと思います。

p179
 ぼくが考えている一番原型的な、本の存在感は、ハウツウ書とか、いまはやりのコミック用紙を使った読み捨ての単行本などとは、どうしても根本的にちがうものではないかと思うのです。
 ぼくは、そういうものもあっていい、本として両極化していくんじゃないか、と思いますが、何かああいう本というのは、本というメディアには不似合いだなという感じがするんです。…

p180
 つまり、本というメディアはどこかで、静かで、孤独で、読む人を沸き立たせるものではなくて、むしろ人の気持ちを鎮めていくような、何かそういうものを盛るのに向いているのではないでしょうか。
 これは、ヨーロッパでいえば聖書みたいなものから始まり、日本でいえばお経の本みたいなものから始まった本の歴史というものから本は自由じゃないし、そういう長い一つの人間の記憶みたいなもの、ぼくがいままで話したようなものも結局そういうものによって編み上げられちるぼくらの観念であり、一つの制度的な幻想なのかもしれないんですが。
 とにかく、ぼくが装幀表現を考えるとき、最終的に考えることは、その本の姿に、静まりみたいなものを生み出したい、ということですね。人が、底知れない静かな沼みたいなものに出会うように本と出会ってくれたらと思うんです。

by kogure613 | 2012-11-01 21:02 | 研究テーマ・調査資料 | Trackback | Comments(0)

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