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吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』&大澤真幸『生権力の思想』

6/26(水)
夜は、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(1947年、89分、出演:原節子、瀧澤修、逢初夢子、 森雅之、清水将夫・・)。
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『お嬢さん乾杯』(木下惠介 監督、1949年)を観て、原節子さんが、小津映画以外でどう撮られているかが気になったので購入していたもの。音楽が木下忠司ということもあって、繋がっているが、コメディというのではない。ただ、チェーホフ『櫻の園』を踏まえた新藤兼人の脚本ということなので、悲喜劇であり、それなりの収め方になっている。
戦後直後の新劇俳優さんの活躍というテーマは単に演劇だけでは食べられないとかいうことのほかに、日本映画における重要なエレメントとして、いまの小劇場演劇人の活躍とも関係して考えることも大事だなあと、瀧澤修さんや清水将夫さんを観て思う。逢初夢子さんは戦前の味わい(ちょっと悲しすぎる感じもあったが)。


2限目、『トウキョウソナタ』後半部分を学生と観ながら、エリック・ロメールのいくつかの映画を思い出していた。
最後の合成(クレジットを見せながら、つい言ってしまったからかも)が不自然とかペダルがあっていないとかいうコメントがあった(これははじめてかも)。

ドビュッシーの月の光のCDを探して聴く。クラシックをはじめていいなと思ったという嬉しい感想もあったからだ。

学科会議を両学科してもらい、14時から臨時学部教授会。

大澤真幸『生権力の思想―事件から読み解く現代社会の転換』(2013年)をようやく読み終える。
メモ
p227-8
<身体が難問なのは、ここに見てきたように、身体こそが、他者への――他者であることへの――勇気と、他者への恐怖との二様の可能性を生成する、両義的で謎めいた場だからではないだろうか。>

p261
<結果が原因に対する過剰こそ、「自由」の究極の根拠がある、とも言えるだろう。この過剰があればこそ、原因の規定から逃れることもできるのだから。>
by kogure613 | 2013-06-26 23:05 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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