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『キートンの蒸気船』(1928),『ミュージッキング―音楽は〈行為>である』『逝きし世の面影』

2014/5/27(火)
夜は、チャールズ・F・ライスナーとバスター・キートンの監督映画『キートンの蒸気船』(69分、1928年)を見る(そのあと、サッカーなんぞを観てしまったな。スマホを大学に忘れたこともあってテレビ漬け的になったのかも)。
前年にトーキーアニメが誕生したこともあり、サイレント喜劇王だったキートンとしてはお終いの時期のもので、前半がどうも長く感じられた。
その分、ハリケーンの建物がどんどん壊れたり飛ばされそうになっていくハチャメチャのスケールは壮大だが、やはり、中編か短編のキートンでいいのを、むりやりストーリー化しようとしているもののような感じがする。

途中まで読んで少しずつ拾い読みしている、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)は、明治初年前後に日本へ来た外国人の記述が豊富に出ていて、いろいろな側面から日本人や日本の風物を観察し驚嘆している。ちょうどそのころイギリス初め専業革命後の公害問題や階級格差が激しくなっていることもあって、じつにのどかな世界としてだいたいは観られていたようだ。

これも、中途でやめている、クリストファー・スモール『ミュージッキング―音楽は〈行為>である』(水声社、2011年)p95。モーツアルトが、騒がしいことで有名なパリジャンに向かって、しずなか楽章になったので、「親指を鼻に当てて他の四本の指を広げる軽蔑の仕草をしてみせて、『シッ!』とやった」という話がなるほどと思う。
また、1920年のパリの聴衆は、ベートーヴェンのシンフォニーの各楽章の終わりに拍手の嵐を巻き起こして、「ある時には演奏の繰り返しを要求し、またある時には『幸福のため息と感嘆のうなり声で沸き返った』」とある。

つまり、<こうした雑音(ノイズ)は、注意のなさや、ましてや敬意のなさを示すのではない。これは、聴衆がパフォーマンスに注意を向けることに(ただ受身なのではなく)積極的だということ、そしてそこでは実際に耳に聞こえる聴衆の反応も、パフォーマンスの正当な要素だということを示している」とスモールは解説している。現代の西洋クラシック音楽コンサートでは、聴衆は参加者ではなく傍観者という立場にあるという対比なのだが、いまの学生には、現代のライブといえば、バンドなので、逆にスモールの現代のコンサートの方が不思議なものだろうなとも思う。
by kogure613 | 2014-05-27 22:36 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

こぐれのぶお・小暮宣雄 写真は春江おばあちゃんと・サボテンの花嬉しく 


by kogurenob
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