小中和哉『東京少女』、永井良和『風俗営業取締り』
2014年 08月 17日
2014/8/17(日)
夜、小中和哉監督『東京少女』(2008年、98分)を観た。
2008年(平成20年)と1912年(明治45年)の同じ場所、同じ時間。
明治は45年7月30日まで。
このころの携帯電話。ケッタイな電話。
湯島天神と銀座。明治村が役だっているようだな。明治45年の若者の本当のしゃべり方ってどんなだったのだろうと、いまと変わらないしゃべり方をしている宮田時次郎役の若い俳優さんを観ていたw
<『ケータイ刑事(デカ)』シリーズなどの丹羽多聞アンドリウプロデュースによる、時空を超えた切ないラブストーリー。異なる時代に生きる男女が“携帯電話”を通じて出会い、少しずつ互いをかけがえのない存在と意識していく様子を丹念に見せる。『天然コケッコー』の夏帆が等身大のヒロインを熱演。相手役の『赤い文化住宅の初子』の佐野和真とともにフレッシュな魅力を披露する。主人公が100年の時を超えて手にする小さな奇跡が感動的。>
<16歳の未歩(夏帆)は、ある日突然母(秋本奈緒美)に再婚相手(近藤芳正)を紹介され動揺する。未歩がレストランから逃げ出した直後に地震が起き、彼女は携帯電話を落としてしまう。消えてしまった携帯の行方を探すため電話した彼女とつながったのは、明治時代に生きる夏目漱石の門下生で小説家志望の宮田(佐野和真)だった。>
1912年
3月1日 - 美濃部達吉『憲法講話』。これを上杉慎吉が批判して、美濃部と上杉で論争が勃発
3月12日- ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社)設立
ガールスカウト創立
3月27日 - 尾崎行雄東京市長がワシントン市に三千本の桜の樹を贈る
4月15日 - タイタニック号が沈没
4月29日 - 夕張炭鉱で爆発事故(死亡276名)
5月5日 - ストックホルムオリンピック(第5回夏季オリンピック大会)開催( - 7月27日)。日本はオリンピックに初参加。
永井良和『風俗営業取締り』(講談社選書メチエ238,2002年)を読む。警察行政と国会の関係、関連業界の動きの歴史が分かりやすく為になる。p221には「芸能」の発生にも言及されていて、なかなか多面的。「消費社会が人間関係を商品化していった軌跡」として、風営法の対象の変化(性風俗への拡大とビリヤードやダンス教室などの規制からの除外)を眺めることもできるという。
p216
<風営法は、取締対象を拡大してきた。1948(昭和23)年に制定されたときの姿からは、大きく様変わりしてしまっている。当初は、一部の飲食店と遊戯施設を規制していたにすぎない。それに比べると、ずいぶんと多様な業種、業態をカバーするようになったといえる。かつては、「飲む・打つ・買う」など大人の男の道楽が行きすぎないよう戒めるものだった。飲酒やギャンブルの領域にくらべると、性にかかわる部分が突出してきたという印象も強い。とくに、この20年では、「買う」の規制に相当する部分が膨張している。風営法はこれからも新しい業種を取り込んでいくだろうが、このような膨張の力は、法律の目的に「青少年の健全育成」が加えられるこおで大きくなったといえる。
<風俗統制が強化されるときには、どういった特徴があらわれるだろうか。ここで整理しておこう。ひとつは、社会問題を対症療法的に「治癒」することから、問題が起きないように「予防衛生」を充実する方向にすすむということだ。そしてもうひとつは、「パターナリズム」の考え方が拡張するということである。…>
p222
<近代社会は、娯楽領域を産業化し、拡大していくことで発展してきた側面をもつ。そして、人間関係やコミュニケーションが金銭と交換される商品として市場に出回ることが、警察の取締を肥大化されることにもつながった。>
今日まで休暇。明日からは大学に行こうと思う。
去年や一昨年も同じようにしていたことが連年日記をつけているのでわかる。
それにしても、いつも高校野球を見ていることもわかる。
試合に負けたほうが甲子園の土を袋に詰めるシーンをテレビやカメラが大写しするクリシェはいつから始まったのだろう。その土はどうするのだろう。あるチームがそんなことをしないと言ったらどうなるんだろう。同調圧力がそうさせないのか?優勝チームだけは土を持って帰らないで優勝旗をもらうということか。優勝旗というのは、すこし戦中の軍旗を想起させる。としたら、甲子園の土もまた物神信仰なのかも知れない。
それと、負けたチームが泣くシーンもよく映る。あんなにかつて(僕が高校野球をちゃんと記憶しているのは自分が高校生で作新学院の江川投手が投げていたときなので、その頃)は泣いていたか。
柳田國男「涕泣史談」(1941年発表、前年に講演)によれば、この頃(対米戦争直前)は、昔(50年ほど前とか)に比べて、大人も子供も泣く回数が減ってきている。少なくとも、見えなくなったという話しをしている。
以下、「涕泣史談」(『柳田國男』ちくま日本文学全集、1992年のp321より、部分引用)
「現代がもしも私の観測した通り、老若男女を通じて総体に泣声の少なくなって来た時代だとすれば」、この時代は、
「泣くことが人間交通の必要な一つの働きであることを認めずに、ただひたすらにこれを嫌い憎み、または賤しみ嘲るの傾向ばかり強くなっている」といえそうだ。
泣きたいときにがまんしているとすると、前よりも泣くことが減ったという現象を
「これを直接に人間の悲しみの、昔よりも少なくなった兆候と見ることは、まだ少しなかり気遣わしく、泣きさえしなければ子供は常に幸福と、即断してしまうことも考えものなのである。
by kogure613
| 2014-08-17 22:44
| こぐれ日録
|
Trackback
|
Comments(0)






