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『Visual YMO : the Best』

2015/2/24(火)
帰って、買っておいたDVD、『Visual YMO : the Best』(2003年、100分)を視聴した。1979-1983の音楽シーンを僕はほとんど知らなかったなあと思いつつ、でも、テクノミュージックの始まりが観られて、なかなかに面白い。バックの大きなコンピューターみたいなものとか。

http://www.mryt.com/video/v_ymo2003.html より
<(高橋)幸宏さんのプロデュース、選曲、監修で制作された様々な時期のYMOの映像作品集。 YMOの1979年、第一回世界ツアーから、1983年、散開武道館ライブまでのライブ映像を中心に、クリップス、 TV出演時の映像までを年代順に網羅した、初のDVDによるベスト・コレクション。
初めてパッケージ化された映像としては、当時集中的にO.Aされた、フジカセットのTV-CF「テクノポリス編」120秒バージョン、 及び「歩く編」、「25時編」を収録。
■収録曲
01 OPENING (1979年 LAグリークシアター開演前風景)
02 BEHIND THE MASK (1979年 LAグリークシアター公演)
03 COSMIC SURFIN' (1979年 LAグリークシアター公演)
04 RYDEEN (1979年 LAグリークシアター公演)
05 東風 (1979年 LAグリークシアター公演)
06 Private Shot in Londonn (1979年)
07 FIRECRACKER (1979年 NYCハラー公演)
08 SOLID STATE SURVIVOR (1979年 NYCハラー公演)
09 DAY TRIPPER (1979年 NYCハラー公演)
10 フジカセットCF テクノポリス編 120秒
11 TECHNOPOLIS (1980年6月2日放送 フジテレビジョン「夜のヒットスタジオ」)
12 フジカセットCF 歩き編 30秒
13 TIGHTN'UP (1980年 LAチャプリン・スタジオ フジテレビジョン「YMOスペシャル」)
14 RYDEEN (1980年 LAチャプリン・スタジオ フジテレビジョン「YMOスペシャル」)
15 中国女 (1980年 日本武道館公演)
16 CITIZENS OF SCIENCE (1980年 日本武道館公演)
17 フジカセット CF テクノポリス 25時編 30秒
18 BGM 発売告知CF
19 体操 (VIDEO CLIP)
20 階段 (1981年 新宿コマ劇場公演)
21 新舞踊 (1981年 新宿コマ劇場公演)
22 CUE (1982年 フジテレビジョン「ミュージックフェア」)
23 君に、胸キュン。(VIDEO CLIP)
24 音楽 (1983年 日本武道館公演)
25 SHADOW ON THE GROUND (1983年 日本武道館公演)
26 EXPECTING RIVERS (1983年 日本武道館公演)
27 以心電信 (1983年 フジテレビジョン「夜のヒットスタジオ」)
28 ENDING 君に、胸キュン。(Making)

東部文化会館のSさんが来られて、7/11に実演芸術関係の地域交流事業を考えていて、1時間ぐらい京都橘大学のサークルさんなどが企画してくれないかという依頼であった。
さっそく、うちの演劇部にメールしておく。演劇の交流ワークショップみたいなことが学部生だけでできるかどうか、いささか心配なので、たまたま院生がハンコもらいに来たので、彼にも頼んでおく。

その彼が、東京の公文協だったかの講座で、伊藤先生が、僕の本を読んだら、5つの主体的芸術営分類が分かりやすくていいとお褒めの言葉があったとのことで、日曜日にワコさんにもそれを言われたところなので、久しぶりに、なかなかに嬉しいなとかつい思って、以下、自己引用w

 小暮宣雄『アーツマネジメント学』(水曜社、2013)p174-176
・・・・
《図表11》は、芸営者であるサプライサイド(供給側)による芸術営の動態的・主体的分類ということもできるものであり、社会の需要サイドから見る芸術営のあり方を補うとともに、すでに詳述してきた芸術営の静態的分類と対になって整理されることになることが期待される。また、このあと、芸術の公共性根拠説を整理することにするが、公共性根拠説を知らず知らずに芸営者は日々の芸術営活動において実践していることも明らかになる。
《 図表11 芸営者の主体的動機による芸術営分類 》
(1)社会提供動機  「見たいものが見たい」(格差是正)
(2)継承復活動機 「見られなくなったものを見たい」(文化遺産説)
(3)時代批評動機  「見たくないものも見よう」(社会批判機能説)
(4)新規創発動機 「見たこともないものが見たい」(イノベーション説
(5)限界芸術動機  「見過ごされているものをしっかり見よう」(限界芸術環境形成)
(1)社会提供動機・・・「見たいものが見たい」。
芸営者自身の動機として、いまここでどうしても鑑賞者とともにこの芸術作品を見たい(以下、芸術を「見たい」には、聴きたい、出会いたい、体験したいを含む。以下同じ)というのがこの社会提供動機である。芸営者の責任において自信を持ってこの芸術場において、この芸術団によって見ることが切望されているというニーズのマーケティングによることも多く、市場が成立しているところでは、営利組織によって提供されているものも含まれる。
芸術がここ(「ここ」は、専用の芸術場であったり、その地域、文化以外の施設であったりする)にはないので、それをこの社会のみなさんと一緒に見たい(芸術営の主体からは、鑑賞者に「見せたい」ということが含まれる。以下同じ)。市場では成り立たない地域などにおける芸術の提供者、プレゼンターによる主要な動機ということができる。芸術が本来的に「プレゼント」(ギフト、贈与)としてかつては地域の神々へ奉納されたというルーツをも想起させられる動機である。
(2)継承復活動機・・・「見られなくなったものを見たい」。
過去には市場〈大衆〉芸術であったり国家に保護されていたりして存在してきた芸術が、いま、ほっておけばなくなってしまうという危機意識から、現在では特別の場所、特別の時間でしか見られなくなった伝統的な芸術(一般には伝統芸能、地域民俗芸能と呼ばれる)を見たい(地域の人たちに見てもらってその良さを再確認してもらいたい)という動機である。国内や自地域の伝統芸術のみならず、他国の伝統芸術の鑑賞は、(1)の動機であるとともにこの動機(人類の共通の遺産意識)でもあるといえる。
また、芸術の公共性根拠(公的支援の必要性)としては、市場に任せると一部だけしか残らないので、政府の支援が必要になり、それによって、子孫にその芸術遺産を継承することが可能になるという文化遺産説が芸営者の動的な活動動機とうまく接合することになる。また、国家の威信、地域アイデンティティとも関係する。
(3)時代批評動機・・・「見たくないものも見よう」。
社会の暗部にある「見たくないもの」、それにも目をそらさずじっと耳を澄まそうという思いがこの動機にはある。すなわち、時代の体制(現在で言えば、市場中心の資本経済の体制と資本の要請に呼応し若干の福祉を補完的に供給する政府・国家体制ということになろうか)に対して疑問、異議、「?」を発する対抗的メディアとしての芸術の働きに着目する動機である。かつての君主制国家においても、道化による国王批評を行うカーニバル的祝祭が定期的に行われたように、芸術はその時代の批評者、オールタナティブ提示者であることが使命となるということも忘れてはならない。
芸術の社会批判説とも関係するもので、演劇がかつて公共の予算で上演できなかったことは、この欲求の裏側でもあり、文化自由権の保障とも関連する欲求である。企業批判を伴うことが多いので、市場性がないことはもとより、政治体制批判も行うために助成の現実的可能性が低いという厳しいなかでの営みとなる。
従って、資金の調達は寄付、カンパが中心となることが多いが、市場とは別にあるべき企業メセナであるとか、行政とは一定の距離を保つ(アームズ・レングス原則)で運営される英国のアーツカウンシルのような機関であれば、時代の警鐘を鳴らす芸術をあえて提示することで、選択肢を増やし熱狂的な興奮状態で政治や経済の方向性を決定する前に静かに考える時間を与えるいい機会になるという、賢明な政策判断の可能性は有している。
(4)新規創発動機・・・「見たこともないものが見たい」。
芸術活動は、世代を超え、創作された芸術作品や様式を継承・発展させるとともに、その既存の枠、型の破壊と創造の歴史でもあった。どんなものが創られるのかわからないけれど、このアーティストに自由に創発させてみたいという欲求がある。実は筆者が紙芝居というかつての大衆文化――現在ではレトロなメディアなのだが、それを林加奈という美術と音楽などのジャンルマルチのアーティストに自由に展開してもらったのは、その欲求であった。これが先端芸術のうち、とりわけ、アバンギャルドな先駆性のあるものに賭ける動機となる。
 気をつけなければならないのは、その新規性の評価を誰がするのか、事前にどのように事業を担うディレクター(芸術監督)やプロデューサー(キュレーター)を選ぶのか、その選ぶ人達は誰なのかという問題と、実行中のトラブルについての責任の所在、そして、終わった後の成果や課題の公正でオープンな提示のプログラムづくりについてである。
(5)限界芸術動機・・・「見過ごされているものを見よう」。
(4)とタイアップされることが多いのは、見たことがないものは、特に目新しいものだけではないからである。(5)では、普段見ているはずなのに見過ごされているようなものが対象である。言い換えれば、それが芸術なのか生活なのか、ちょうど、その端境(はざかい)にあるようなものが対象となるわけである。
「見過ごされているもの」は日常生活や人生イベントにおける限界芸術そのものであったり、限界芸術行為によってしっかりと見えてくる、いままで見過ごしていたものであったりする。
(5)によって、それぞれが潜在的に有している限界芸術心を先端芸術に触れ媒介者とすることで、解放され(リリースされ)、身近で芸術を行い享受することができるようになる。このような限界芸術動機は、公共性論的には、もちろん限界芸術環境形成という政策必要であるとともに、ひいては、市民向上説や社会批判機能説にもつながるものである。
すなわち、限界芸術 (非専門家が創作して非専門家が鑑賞享受する芸術)に着目して、その芸術としての面白さ、楽しさを見ようという動機が存在する。ただし、生活や信仰の場から切り取って舞台にあげるようにすると変質することがままあるので、“野草の花をどうやって観賞するのか”、という発想で取り扱う必要も多く、さりげない限界芸術場の創出自体が芸営者の能力を発揮する格好の現場となる。いすれにせよ、ARTS FOR ALLという理想を持つ芸営者は数多いと思われ、重要な動機にこれからなるものである。
 以上、私見ではこのような5つの動機、即ち、「見たいものが見たい」、「見られなくなったものを見たい」、「見たくないものも見よう」、「見たこともないものが見たい」、「見過ごされているものを見よう」が想定できると思われる。その他に、たとえば、「地域など社会の人たちとともに見たい」など、いろいろな動機を芸営者自らが考えることも大事であると思わる。いずれにせよ、こういう芸営者の動機づけとその実現という側面から芸営学を再構築することの意義は大きいのではないかと思っている。
・・・


by kogure613 | 2015-02-24 21:57 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

こぐれのぶお・小暮宣雄 写真は春江おばあちゃんと・サボテンの花嬉しく 


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