2015/9/28(月)
2回生ゼミは他己紹介。夏休みの文化体験。これからの抱負。
そういえば、他己紹介は3回生ゼミで前期したので、ここでは初めてだったか。
聞き取ること、発表すること。シンプルなことでも小さなステージの体験は大事。みんなちゃんとするのがとても心地よい。
3回生ゼミ。すこしゆるくなる。10/19は遅刻しないこと。夏休みのことを聴いた後余った部分は『幕が上がる』をすこし観てもらって反応を探る。きゃりーぱみゅぱみゅでも一人嫌いだというような反応が先週の金曜日あったように、アイドルというものの扱いは両極に出る可能性があるということか。
4回生ゼミは、後半個別対応。就活が決まると、卒論はじめようという氣になるはずだと思いつつ。
そのあと校務ふたつ。
帰って、あの年この歌、1963年、中村八大特集をぼんやり見る。
メモ
「(逆風満帆)ミュージシャン・紅龍:上 アジアを越境するお祭り音楽:朝日新聞デジタル http://digital.asahi.com/articles/DA3S11980378.html 」を読んだ。たまたま小暮はなが紅龍とご一緒させてもらうようになっていて、ご縁なんだなと思う。
当時のいわゆるワールドミュージックのブームがバブル期だったというのがいまから思うと少し不思議ではあって・・・
<「日本伝統の大衆芸能や祭りに根ざした、民族融和の音楽があってもいいんじゃないかと思ったんです。日本人の原型に立ち戻って、なにはともあれ、歌って踊って楽しくやろうよ、みたいな『場』をつくりたいと妄想していたわけです」
上々颱風がCDデビューしたとき、まさしく、バブルが栄華を極めようとしていた。開けっぴろげで貪欲(どんよく)な時代は、もろ手を挙げて、未知の音に飛びついた。>
<西川郷子が、人前で歌う紅龍の姿を初めて目のあたりにしたのは1970年代の後半、中学2年のときだった。
地元の神奈川県横須賀市の文化会館で催された「韓国政治犯支援コンサート」で、坊主頭の紅龍がフォークギターを弾き語りしていたのだ。千人余り収容する大ホールは空席だらけだった。
「遅れて来たフォーク少女」だった西川は、コンサートを告知するざら紙のチラシをなにげなく見かけ、学校の制服を着たまま、のぞいてみたのだという。
「紅龍さんも、時代からずれていた人で、ボブ・ディランのカバーや、オリジナルの骨太なプロテストソングらしきものを歌っていたんです。でも、歌詞の言葉づかいのひとつひとつが、すごくとんがっていて、カッコよかったんです」>