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鳥辺野をたずねて 《「天皇は日本国民の無責任の象徴」という解釈が成立しかねなかった》

あさ、思いがけない電話。思いがけない対面。

(一昨日のことなのだが書き忘れたのでここに補記する)12日、東山青少年活動センターの帰りに、鳥辺野鳥辺山との違いなどなかなか分かりづらい)とかつて呼ばれた付近を少しぶらつく(死者が捨てられ~風葬~、次第に埋葬されてきた京都の重要な墓地であり葬送の地域なのだが、その範囲などはどうもはっきり判らないから、葬送を勉強するためもあり)。
インターネットで調べると、平安時代からその場所が南に下っていったようで、それで場所が特定しづらい。京の人たちにとって、日常生活の場ではなく、一種異界であったのもその理由だろうが、いまはこのあたりのみがそう呼ばれている(市街地地名ではないが)みたいだ。

大谷本廟の脇の道を上っていくと、墓石屋が並び、仏花を売っている。お墓参りの人たちに出会う。親鸞が火葬された場所の案内がある。御荼毘所とか書いてあったっけ。一応、このお墓だらけの場所は大谷墓地というのだが、面白かったのは、途中、日蓮宗のお寺の墓地を通っていくので、すべてが浄土真宗のお墓(戒名~いや真宗では、法名か~でだいたい分かる)だとてっきり思っていたが、違っていたこと。

薄暗くなると、このあたりやはり少し不気味かも知れない。ここでのお墓参りは、広い駐車場と同じでうかうかすると見つからなかったり、道に迷ったりするかもね。親鸞が火葬されたというところは、くぼみになっていて、カラスがいっぱいいる。薄暗くて、行き止まりになっている。それでも、お花とか供物があるので、毎日お参りされているのかも知れない。

今日は、そういうことで、何もなく、数日間は、お盆休みです。

NHKをぼんやりみていたら、厚生省の認定する公務死となれば、靖国神社で、英霊となって神様(お柱)、何とかのミコトってかってに(=祀ってほしいとかほしくないとか言えない)なってしまうという話が聞こえてきて、やっぱりヘンテコリンだと思ってしまう。《A級戦犯の合祀については、彼らの戦争責任(アジア諸国民に対しての責任と、特攻隊など「無駄死に」を承知で行なった数々の神風頼みの作戦、保身のための誤謬についてなどかずかずの責任がある)が、昭和天皇の無謬性(=戦争に対する無責任)に由来し、国際と国内との間に作られたダブルスタンダードによって「禊」とされた問題に及ぶが勉強不足のため、ここでは、触れない~あとで、天皇の責任(戦争終結を長引かせた言動についてが次第に明らかにされているようだ)関連については、戦後についてだが、いま読書している本の引用を補足~》

たとえば、大谷墓地に埋葬された熱心な浄土真宗の信者も、戦死したり、沖縄戦で集団自決したりすると有無を言わせずに、神道のミコトになって「顕彰」(いいことだと誉める)してしまう。合祀されたりされなかったりと、平等なはずの死者にまで差別、区別があるのはなぜか。「二人称の死」にかかわっても(親密なる人たちの気持ちや意思とは無関係に)、国家が管理してしまうのはどうしてか。国家の戦争に参加(無駄死にの命令、国際法違反の惨殺命令と分かっていても、日本に残された親族への迫害を恐れて拒否できなかった)した時点で、個の死も国家が関与する死(愛国心に寄与する死)になるということ。それが一応の理由だろう。

また、戦犯が合祀されて以来、閣僚はお参りすることに熱心なのに、神道の頂点にいる天皇が、お参りしないのはなぜか。疑問ばかり出てくる靖国問題も少し整理して勉強しておこうと、積読の山を増やすだけかも知れないのに、ついアマゾンしてしまう。

天皇からの距離付けである叙勲のみならず、芸術でも何でもコンテストや顕彰を日本人がすきなのは、死の序列付けである靖国合祀と関係があるのかも知れない。顕彰とアーツに関わる諸点、「パブリック」アート(おおやけ芸術、滅私奉公アーツ)としての二宮尊徳、明治偉人たちの銅像、八紘一宇など軍事的な碑、そして御真影という名前の修正写真など、様々なことをこうして、日記を記していると思い出す。

小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉~戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002)の引用(象徴といえど、生身の人間なので、いろいろ外交や政治に影響を与えてきた昭和天皇に関わる部分):
(日本の再軍備容認に転換する前に本国アメリカの再軍備要請に対して) こうしたマッカーサーが、第九条擁護のためにもちだしたのが、沖縄の存在であった。彼はケナンらとの会談で、「沖縄を適切に整備し要塞化するならば、我々は外敵の攻撃から日本の安全を守るために、必ずしも日本の国土の上に軍隊を維持する必要はないのだ」と強調したのである。また昭和天皇はマッカーサーに、沖縄を長期にわたり利用することを認めるメッセージを渡していた。p452
(アメリカの国務省顧問だったダレスが来日したが、吉田茂には何度も煙に巻かれてしまう) 一方でダレスにとって収穫だったのは、1951年2月の天皇との会見だった。天皇はアメリカ主導の講和条約に支持を述べる一方、ダレスに対して、鳩山一郎など公職追放された政治家たちに会うことを薦めた。鳩山は吉田に対抗できる、保守政界の有力者だった。もともと天皇は、1947年5月6日のマッカーサーとの会見で、「日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待して居ります」と述べていた。また1950年8月にはダレスに文書を送り、公職追放の緩和によって「有能」な人物たちが活動できるよいうになれば、「基地問題をめぐる最近の誤った論争も、日本の側から修正できる」と述べていたのである。p457

やっぱり、はじめの部分も引用しておこう。P57~58
 戦争終結が遅れた主な理由は、降伏条件だった。上層部では、いずれかの局地戦闘に勝利して、降伏条件を改善すべきだという意見が強かった。降伏条件の改善とは、まず天皇制の防衛であり、次に戦犯裁判を日本側で行なうことだった。作家の小田実は後年、「天皇制が護持されることは、とりもなおさず天皇の生命が助かることだ。そして、戦争の最高指導者だった天皇の生命が助かることは、他の二番目、三番目の指導者の生命が助かることだ」と述べている。
 1945年2月には、近衛文麿が天皇に降伏交渉を上奏したが、天皇は「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」とそれを拒否した。その後の半年のうちに、沖縄戦と大量の特攻が行なわれ、各地の空襲と原爆投下があり、ソ連参戦と朝鮮半島の分断が生じ、南方戦線でも大量の戦死と餓死が発生した。多くの日本の戦死者、とくに民間犠牲者のほとんどは、この半年に集中して死んだ。
長くなったが、戦後の憲法づくりのなかで、どのように天皇制を護持しつつ、天皇を戦争責任追及から逃れさせたかの国会答弁のくだり:p146
 金森(金森徳次郎担当大臣:小暮注)の答弁によれば、新憲法が定める天皇は「国民が天皇を中心として結合して居ると云う道義的な」象徴である。そうした天皇には、政治上の権力がないのみならず、司法大臣の木村篤太郎によれば「刑事上の責任は勿論、民事上の責任は御持ちにならむ」。そして金森は、「天皇に責任なきようにこの憲法を作る」のが趣旨であり、「天皇は無責任だ」と述べている。
 しかし政府によれば、天皇は日本の「道義的」な象徴であった。それと同時に「天皇は無責任」であるとすれば、猪木正道が述べたように、「天皇は日本国民の無責任の象徴」という解釈が成立しかねなかった。

by kogure613 | 2005-08-14 23:06 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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