夏目漱石『明暗』 『天才落語家・立川談志 ~異端と呼ばれた男の素顔~』BS朝日
2016年 05月 25日
<ここで津田のお延に対する認識面での優位を読み取るのは後回しにして(それはいつ逆転するかわからない)、まずは津田とお延の視点が同等の分量で並置されることで醸し出される「説話論的な睦まじさ」(渡部直己『日本小説技術史』p.272)に注目せねばならない。『明暗』という題がすでに示唆する二極構造で貫かれた本作において、お延は完璧に津田のカウンターパートをこなし得ているのだ。実際津田-お延を中軸に、秀子-継子、藤井家-岡本家、はシンメトリーをなして配置されており、それを上層階級の吉川夫人と下層階級の小林が挟み込む、堅牢な構造を小説は実現している。圧巻はもちろんお秀が病院の津田を見舞いお延の扱いをめぐって口論している部分に続く「お秀が斯う云ひかけた時、病室の襖がすうと開いた。さうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現はれた」(「百二」)とそれを受けてのお延視点による出来事の再構成である。このように一つの視点を常に相手側の視点によって相対化し、さらには吉川夫人の干渉・小林の批判にもさらすことによって、限られた登場人物数で「社会」の多層性を表現しようというのがおそらくは漱石の方策であった。直接は相対峙しない吉川夫人-小林の縦軸と常に角突き合わす津田-お延の横軸で張られたグリッドの中で登場人物達が互いの目を意識し合うゲームは、阪口ら男友達との交友とお栄ら家族との関係が独立に進行する『暗夜行路』には全く見られなかった。家族制度も『明暗』の中では、「己達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めたことは未だ嘗てない。だから何処のお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母といふ所有者がちやんと食つ付いてるんだ。だからいくら惚れたくつても惚れられなくなる義理ぢやないか。」(「三十一」)という藤井の叔父の言葉に端的に読み取れるように、小説家によって「社会」の開始点として機能的に活用されているのだ。>
<小学校5年生の時、伯父に連れられて行った「浅草松竹演芸場」で、初めて生の落語を見てその話芸に心奪われ、「ずっと寄席に居たい、寄席にずっと居るためには落語家になるしかない」という思いが心に芽生えます。その夢をかなえ、16歳で柳家小さんに弟子入り。柳家小よしという名前を与えられ修行に励みました。
昭和29年には、二つ目に昇進。名前も柳家小ゑんとなります。談志は落語だけにとらわれず、アメリカンジョークを習得してキャバレーやストリップ劇場の幕間でスタンダップコメディーとして披露するなど多彩な才能を開花させラジオやテレビにも引っ張りだこになりました。
しかし、そんな談志を襲った屈辱…。入門が早かった談志より先に、弟分だった古今亭志ん朝が真打に昇進してしまったのです。談志は古今亭志ん朝に「辞退しろよ!」と迫り、この悔しさと落語協会への不満をのちのちまでひきずります。24歳のとき、フィアンセがいた女性に猛アピールし略奪結婚。
この女性が生涯の伴侶となる、則子(のりこ)さんでした。その後、タレント議員ブームにのり、参議院議員に当選するも、酒に酔って会見を行ったため非難が殺到して辞任。その破天荒ぶりが話題となります。
さらに、真打昇進試験への不満をきっかけとして落語協会を脱退。立川談志を頂点とする家元制の立川流を創設すると、立川志の輔、志らく、談春らを育て上げます。晩年は病との闘い。1997年 食道ガン、2008年には喉頭がんを患います。ガンを完治させるためには、落語家の命である声帯を摘出しなければならず、談志は完治を諦めて、落語家としての最期の時間を過ごします。>