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原彬久『岸信介―権勢の政治家』(岩波新書、1995年)より抜書き

彬久『岸信介権勢の政治家』(岩波新書、1995年)より抜書き


「里見某なる人物」=里見甫(はじめ)1896122 - 1965321

P74-75

<岸(信介)が甘粕(正彦)をのちに(昭和14年)国策会社満映(満州映画協会)の理事長に据えたことからもわかるように、岸と甘粕は満州で終始一貫親密な関係にあったことは事実である。

<甘粕のカネ遣いは、そのスケールにおいてケタはずれであった。アヘン密売によるところが大きかったといわれる。岩見隆夫によれば、満州支配層がアヘンの密売によって収入を得る道には二つあった。一つは満州国政府が熱河省のアヘンを南方(上海、香港)でさばくルートであり、いま一つはイギリスから、上海の里見某なる人物を経由して甘粕に通じるルートである。甘粕が当時大規模な諜報謀略活動に従事しえたのは、莫大なカネを生むアヘン・ルートを彼が握っていたからである。

<…アヘンによる収入が関東軍の巨額の機密費を賄っていたわけである。…したがって、岸(信介)と関東軍とりわけ東条参謀長との関係が表舞台とは別のところで、しかもアヘンをめぐって通じていたという仮説は十分成り立つといえよう。
 東条の引きもあって、離満後商工次官、商工大臣となった岸は、今度は東条に政治資金を与えるようになるが、いずれにしても、満州で固まった岸・東条の親密な関係は、アヘン疑惑を含むカネの関係でもあったといえよう。>

237-238
<カネの問題に戻るが、確かに田中(角栄)は集金において、利権の漁り方において、そしてカネの配り方において疎漏の感を免れない。岸は田中のこうした行動を「ああ、よっしゃ、といって少し軽率なところがある」と評する。
 一方、かくいう岸が資金集めとその使い方のスケールにおいて田中に優るとも劣らなかったであろうことは容易に想像がつく。ただ、両者間の決定的な違いは、田中におけるカネの出入りが優れて可視的であるのにたいして、岸におけるそれが構造の網の目のなかに隠れて杳としてみえない、ということである。…
 …岸の場合、一高、東大時代の交友関係、そして商工官僚として、満州国経営の実力者として、戦時体制下の商工相として、さらには戦後首相にまで登りつめていくプロセスで隆々と築き上げたその人脈はそれ自体巨大権力であり、したがって精緻に構造化されている。構造が岸に向けて流しだすカネは、ほかならぬ構造という名の「濾過装置」をくぐり抜けながら岸その人に届くのである。しかし、こうしたカネが直背5つ、岸の手を煩わすことはない。彼の至近距離に設けられたもうひとつの濾過装置、すなわち取り巻きを通して政治資金の集配がなされるからである。…>


http://pata.air-nifty.com/pata/2005/10/post_558e.html よりの引用(孫引き)

1)大川周明は『日本精神研究史』で「かくて予は社会制度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いで吾師とした」と吐露している(p.31)

2)浜口内閣時代、商工省は恐慌脱出の活路を求めて、ドイツ流産業合理化運動を取り入れた。それは企業合同、カルテル化による無秩序な競争の排除を主目的としており、中心人物は岸信介と上司で後に次官となる吉野信次だった(p.40)

3)こうした国家統制論は、ソ連の五カ年計画によって先取りされており、岸は「初めて知った時には、ある程度のショックを受けた」と『岸信介の回想』の中で語っている(p.47)

4)岸信介は自由に腕をふるった満州国の国づくりに際して、自分が渡満する前に、直系の部下である椎名悦三郎を3年前に送り込んでいる。椎名は田中角栄後の総理総裁に三木武夫を選んだ椎名裁定で有名だが、岸信介がA級戦犯の容疑で拘置されている時、マッカーサーに対して無実であるとの上申書を送っている。『巨魁 岸信介研究』岩川隆で苦笑したエピソードがあったのだが、同じ巣鴨プリズン仲間であった笹川良一は自分が戦犯容疑に指定されると「こんな名誉なことはない、と自分たちの子分のバンザイの声に送られてトラックで巣鴨プリズンに乗り込んだ変わり種」だったが、獄中で知り合った岸信介が"一物が元気で困る"と豪快に笑ったのに感心し「監獄生活の夜な夜なに一物憤然として怒り立ち、焔のごとく燃え狂い石のごとく固ければまずその人は心身とも健全なる証拠、一物の怒りを制御しかねてぼくに告白した岸君はやっぱり世評にたがわぬ骨ぶしの男」と『巣鴨の表情』で書いている(p.78)

4)満州当時、岸信介は当時の部下に毎月、現在のカネで20万円相当の小遣いを与えていたという。また、甘粕雅彦の特殊工作にために85億円のカネをつくってやったという。こうしたカネはアヘン・ルートを通じて得て、満州国の総務庁主計所長の小梅忠之が里見という男と取り仕切っていた、という(p.74)

5)阪急の創始者、小林一三が商工大臣、岸信介が事務次官だった時、19411月に企画院事件が発生する。これは岸ら統制派の革新官僚の拠点であった企画院の幹部が、共産主義活動に関与していたとして治安維持法で逮捕されるという事件。自由主義経済論者の小林は国家統制を強めようとする岸を「アカの思想」の持ち主として、辞職を求めた。結局、岸は辞職するが、その三ヶ月後、軍の機密を小林が漏らしたということで、大臣を辞任させられ、岸は東条内閣で商工大臣として返り咲く。45歳で大臣となった岸は先輩の次官、局長のクビを切り、後輩の椎名を次官に据えるなど、岸体制をつくりあげる。
・・・・・>

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by kogure613 | 2017-03-06 15:17 | 情報収集 | Trackback | Comments(0)

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