カズオ・イシグロ『浮世の画家』 苫野一徳『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方―』

2018/1/10(水)

カズオ・イシグロ『浮世の画家』(飛田茂雄訳、2006年、早川書房。“An Artist of the Floating World”1986年)を読み終える。『日の名残り(The Remains of the day 1989)』だけ読んでいた。映画がさきだったが。

最近純文学を読むとちょっと戸惑ったりするのだが、回想がいろいろ飛ぶとしても読みやすい訳文だったので、すっと読めた。若い時からこういう引退した画家の話を書くというのは著者のおじいさんの家が身近だったからか。孫とのやりとり。長女節子と次女紀子。紀子という名付けには、小津安二郎映画が関係するのだろう。原節子演じる紀子とは少しイメージは違うが。

参考:カズオ・イシグロ作品を(ほぼ)ぜんぶ読んだのであらすじを紹介する(作家・松崎有理)http://yurimatsuzaki.com/kazuoishiguro#c2 より

<【あらすじ】
終戦から数年後。引退した画家の小野益次は、現役時代の名声を反映するかのような立派な家に住んでいる。だが次女の紀子の見合いは万事順調にみえていたのに急に破談になった。小野は、原因は戦時中の自分の作風にあると考える。いかにも愛国主義を礼讃するかのような当時の姿勢は、現代の新しい風に当たった若者たちには批難の対象となっている自覚があった。現に、長女節子の夫は、小野のかつての仕事を正面から批判する。年寄りどもは謝罪すらしない、当時犠牲になったあまたの若者たちの死骸の上に富を築いている、と。
町は戦時中の焼夷弾による破壊から立ち直りつつあり、どんどん変わっていく。その中で唯一むかしの場所で営業を続ける小さなバーで、小野は過去を回想する。すでに名をなした自分と弟子たちとの軋轢、それと重なりあうかのような修行時代の自分自身と恩師との対立。どの時代にも似たようなことが繰り返されている。お互いに大人気がなかった、だがいまなら理解できるように思う。
紀子が次に見合いする家は、美術界の重鎮だった。初めての見合いの席で、小野は自らの過去の仕事に対しなんら恥ずべき感情は持っていないという心情を吐露する。彼自身は見合いを成功させるために必須だと考えていたが、紀子も節子も、そのような発言はあの場では意外かつ不必要だったと思っているらしい。小野は娘たちは誤解しているのだ、と考える。結局のところ見合いは成功し、以後誤解はうやむやになったままだが、小野は旧友とのつかのまの再会と死を乗り越えて、ある種の達観の域にいた。みろ、あの若者たち。新しい時代の希望に満ちて、実にいい笑顔をしているじゃないか。

【松崎の感想(メモ執筆当時)】
長篇二作目、ウイットブレッド賞。やはり信頼できない一人称で過去を回想する形式。どうやらこの形はもはやイシグロ形式と呼んでもいいかもしれない。類似点が見えてくるにつれさすがに飽きてきたのか、他の作品よりはインパクトが弱い気がする。
こちらの訳もあえて個性を出さず読みやすい。やはり翻訳ってこうでなくちゃ。とんでもない有名人が訳す場合は除いて、翻訳者とはあくまで黒子に徹するものであり、顔がみえてはいけない、と思う。この訳者の飛田氏も前著の小野寺氏も、ストイックなまでに自分の文体というものを殺していた。翻訳とは原文の文体をすっかり解体してしまう作業であり、そこに新たな文体を加えるのはきっととても勇気のいることにちがいない。だが、これだけ文体というものがきれいに消去されてしまっても、作家がほんとうにいいたいことは残るものだ。だから文体に依存してはいけない。反面教師はウルフであり、見習うべきはベケットだ。>

2限目授業、12時半から教員全員の懇談会。

理事長が教育の無償化と質保障。ちょっと思い切った発言も出たな。学長は橘学園の歴史の話し。いまのブライトンホテルが立っている場所は江戸時代から続く呉服商だったとか。

13時からのUIターンの集まり(21自治体が参加。静岡県関係でのフォーラムも)で挨拶。そのあと学生部委員会、大学評議会。

苫野一徳『勉強するのは何のため?』は1回生演習を持つかも知れな買ったので、その教科書にしようかと思い購入していたが、なかなかに深かった。「一般化のワナ」と「問い方のマジック」というのも、テレビのコメンテーターとか雄弁そうな政治家などがよく使う手法だし。

勉強するのは何のため?についての納得解に私も納得できた「<自由>になるため」

さらに、学校のあり方にも⇒「<自由の相互承認>の感度を育む場所」

注:<自由>とは、「生きたいように生きられているという実感」。勉強するのは、「生きたいように生きる」自由を得るための力をつけるため。学校は他者の自由と自分の自由を相互に承認するということを学ぶ場所(道徳の時間だけではなく)。

注:納得解・・自分だけの正解でいいし、完全な正解というものはないとしても、多くの人が納得できる正解を追求するのが哲学。

苫野一徳『勉強するのは何のため?僕らの「答え」のつくり方2013年、日本評論社

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/6284.html

<「なんで勉強しなきゃいけないの?」──誰もが一度は考える、でも誰も答えられないこの疑問に、哲学を使って「納得解」を出す!

はじめに

第1章 「一般化のワナ」と「問い方のマジック」

1 落とし穴その1:一般化のワナ

「経験」は人それぞれ/学校の先生と塾の先生、どっちがいい?/先生だってひっかかる/少年少女は凶悪化した?/みんなが納得できるだろうか?

2 落とし穴その2:問い方のマジック

二者択一のワナ/一〇人乗りの救命ボートに、一一人が乗り込んだ……/第三のアイデアを

コラム1 超ディベートについて

第2章 なんで勉強しなきゃいけないの?

1 どうして答えが出ないのか?

「納得解」を見つけよう/ニヒリズムという〝どん詰まり〟/「神は死んだ」

2 「答え」を出すにはこう考える

ニヒリズムを乗り越える/「問いの立て方」を変える/自分にとっての正解を/条件を整える

3 〈自由〉になる――だれもに共通する「答え」

「生きたいように生きる」には/〈自由〉になるため/この章のまとめ

コラム2 「唯一絶対の正解」ってほんとにないの?

第3章 なんで学校に行かなきゃいけないの?

1 なんで勉強を強制されるの?

二つの〝正論〟/やっぱり勉強なんて役に立たない?/学力=とどのつまりは「学ぶ力」/探求型の学び/「学び」のこれから

2 学校に行くのは何のため?

どうすれば〈自由〉になれる?/〈自由〉をめぐる戦争の歴史/戦争がなくならない理由/〈自由の相互承認〉の原理/〝感度〟をはぐくむ

3 学校に必要なこと

がんばってきた日本の学校/日本の教育は悪平等?/何が必要な「平等」か?/いじめ、体罰、そして教育の未来……

コラム3 道徳教育のジレンマ

第4章 いじめはなくせるの?

1 いじめはどうして起こるのか?

いじめの根源/厳罰主義か、更生主義か/自己不十全感/逃げ場のない教室空間

2 いじめのなくし方

人間関係の流動性/信頼と承認/教師の多様性/教師への信頼/なぜ体罰はダメなのか?

コラム4 「コミュニケーション力」は一つじゃない

第5章 これから学校はどうなるの?

変わりゆく学校/学校に代わるもの?/教育の未来のために

ブックガイド・参考文献

あとがき

『勉強するのは何のため?』苫野一徳- 世の中http://namyoun.hatenablog.com/entry/2013/10/16/104429

<勉強する理由について「唯一絶対の正解はない」という答えを導く。あっさりした答えではあるが、このあとに続く言葉が重要である。つまり「『自分はどういう時に勉強に意味があると思えるんだろう?』と問うことが重要」ということであり、「そしてその答えを見つけられたら、そう思えるための条件を自分で整えていけばいい」ということである。

 そして、苫野氏は「唯一絶対の正解はない」ことを踏まえつつ、あえて1つの答えを示す。それは「<自由>になるため」であるという。ここでいう<自由>とは「できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感」のことである。勉強する理由は、そういった状態になるためである、と。

 この苫野氏の切り口は、自分のようなひねくれた人間であっても納得がしやすい。例えば「夢」という言葉には一定の成功のイメージが含まれているが「自由」という言葉には各自がそれぞれ自分の理想の姿を想像する余地が残されている。そして苫野氏は学校という場所を、ヘーゲルの<自由の相互承認>の原理に則って、こう定義する。他者と関わることによって「<自由の相互承認>の感度を育む場所」である、と。>


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by kogure613 | 2018-01-10 22:48 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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