第5回市縁堂の実行委員会
2018年 06月 20日
2018/6/20(水)
夜は、ひと・まち交流館京都、京都市市民活動総合センターで、市縁堂の実行委員会。
この市縁堂、12月の日曜日に行う予定だが、なかなか広がらない。
結構、頻繁に実行委員会をして改善を考えているのだが。
去年の説明:
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000228057.html
<京都市では,市民活動を市民が支えていく社会の形成を促進するため,寄附を通じた市民の社会参加と寄附を財源とするNPO活動を応援しています。
この度,NPO法人等の市民活動団体による活動内容を知ってもらい,活動に共感されれば,その場で寄附し,応援できるイベント「市縁堂(しえんどう)2017」を次のとおり開催しますので,お知らせします。>
月曜日の地震で、雑誌イマージュが落っこちていて、そのなかに2012年春号があった。
その中で、池内靖子さんが、女優論の本を書いていることに気づく(昔読んだはずだが)。
日本の女優の始まりとしての松井須磨子、そして、終焉としての金満里。なるほどなあ。
https://www.honyaclub.com/shop/g/g12468944/
『女優の誕生と終焉ーパフォーマンスとジェンダー』平凡社、2008年
<規範としての身体から越境する身体へ。ジェンダーとポストコロニアルの視点から近現代日本の演劇テクストと身体を読み直す。
第1部 帝国のプロジェクトとしての近代演劇(「女優」と日本の近代―松井須磨子を中心に;帝国のまなざしと擬態―川上音二郎・貞奴の『オセロ』;帝国のロマンス「三態」―『マダム・バタフライ』『M.バタフライ』『ミス・サイゴン』)
第2部 近代演劇の否定―アングラ演劇におけるパフォーマンスとジェンダー(アングラ演劇における「女」―鈴木忠志の「女優論」と佐藤信の「阿部定」劇;「家と母」の解体―寺山修司の『田園に死す』から;「母であること/女であること」―『身毒丸』の二つの上演;「母殺し」を超えて―岸田理生の『糸地獄』における対抗的語りと身体性)
第3部 「ポスト・アングラ」の身体表現と批評言説(「女性観客」の構築―批評行為というパフォーマンスの政治学;撹乱するセクシュアリティ―ダムタイプの『S/N』におけるドラァグ・クィーンのパフォーマンス;「“女優”の消滅」―セクシュアリティをめぐるイトー・ターリのパフォーマンス;身体をめぐる近代のパラダイムを超えて―金満里・劇団態変の身体表現)>
限界芸術を含めてポピュラー音楽や歌謡アイドルについてを枕に田中好子論。
どんどん彼女のことを知っている学生が少なくなる。
最終リポートの中間報告を読んでいて時にユニークな案が出る。例えば屋根のある屋外で、雨の音を聞きながら映画鑑賞。雨にちなんだ映画タイトルも。色々突っ込めるがなんか面白い。スケッチ付き。
眼底検査を初めてしてその結果がD2 今までC12が一度あっただけだったのでこわごわ椥辻の眼科へ。加齢でこれぐらいは支障ないと画像を見せてもらう。
手術ずきの所もあるがそこでも必要ないと言いそうで一安心。
すぐに終わって所在無く、三条河原町の大戸屋へ。いつもはラーメン屋とか餃子の王将なのだが、総コレステロールがAでなくなったのでヘルシーに魚の定食に。