国分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』 桂春雨「粗忽長屋」&桂福丸「元犬」

2018/7/1(日)

録画していた上方落語の会。どちらも江戸落語から大阪天満宮へとシフト。

どちらも面白い(知っているネタがどうなるかというワクワク感)。

灘中(京大法学部)出身の桂福丸「元犬」。つい前の犬の習性がでる。でも、それを面白いと受け入れる寛容性。

低血圧の桂春雨「粗忽長屋」。確かに、死んだ自分に出会うという設定。ボーとしている利点。シュール。


予報では最高気温は35度だという。出かける気がしない。

まだ風があるが・・・扇風機を出す。組み立てに難儀。

読み終えたのでメモっておこう。

国分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』2017年、医学書院。

<失われた「態」を求めて。

<若き哲学者は、パンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッカー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。>

165-6あたり

インド=ヨーロッパ諸語の「共通基語」がいつ頃から話されているかは説が別れているが、もともと、現在のウクライナ、あるいは南ロシアのあたりに住んでいたと考えられている。遅くとも紀元前3000年頃までに、現在のヨーロッパ各地へと移動。次第に欧州をインド=ヨーロッパ語化していったと考えられている。

どうして分かるかというと、「海」を意味する単語がバラバラで、船や櫂、帆、雪などは共通。そういうことで場所が想定できるのだそうだ。

191 「動詞の憶測的起源」

<名詞から発展した動詞はまず非人称動詞としてあった。それは発達の中で、特に中動態によって担われることになる意味を獲得していく。そしてさらなる言語の複雑化のなかで、中動態は自らに対立する能動態をその派生体として生み出す。能動態と中動態の蜜月関係は長く続いた。しかし、あるときから中動態は自らが生み出したもう一つの形態である受動態にその地位を奪われていく。やがて受動態は能動態と対等の地位にまで上りつめ、中動態はその存在すら忘れられ、それが担っていた意味は、分割されて、他の諸表現―自動詞、再起表現、使役表現等々―に相続されるおうになった・・・>

262-3あたり

スピノザの定義「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」

<自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰するこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。

「その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。>

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by kogure613 | 2018-07-01 21:16 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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