想田和弘『港町』京都シネマ

2018/7/4(水)

大学評議会がスムーズに終わったこともあり、京都シネマへ。

ほんとに久しぶり。3階には、京都精華大学のコーナーも続いていた。

観察映画第7段、想田和弘(監督・製作・撮影・編集)『港町』2018年、122分。京都シネマ、1720から。撮影は数年前のようだ。撮影したカラー映像を、共同製作の柏木規与子さんが、モノクロームにすることを提案したそうだ。たまたまだが今日使った『黒い雨』のモノクロームつながり。

最初、カラーだけれど、彩度を低く設定しているのかなとか思いつつ見出した。

いままでの映画とは違うなと思ったのは、想田さんが、ずいぶん質問をすること。

もちろん、被写体からの質問にも丁寧に答えている。

そして、奥さんで製作担当の柏木規与子が岡山弁(多分)で話している。その姿もときに映る。

裏方とかそういう感じがない。

『牡蠣工場』のときに、牛窓の風景を撮るというところから派出した映画だという。

意図しない中で、カメラが回り、その町を追い出す。

映る人たちのほとんどは後期高齢者だ。

55年、鮮魚店をしている女性は実に元気で優しい。荷物をもってやろうと結構しつこい。

しつこさは、もちろん、主人公になってしまったおせっかいおばさん(クミさん。小学校にも行かせてもらわなかったという、継母のもとで)。

そうそう、おじさん、おばさんと呼びかけるのも、「近さ」の呼びかけだ。二人称的な関係。客観性というドキュメンタリー映画のフィクションがそこにはない。

他方、前半の主人公、漁師のワイちゃんは、耳が遠いので、一方的につぶやく。被写体の人たちはずいぶん同じ話を繰り返す。魚がやすくなり網などが高くなって割が悪い。

クミさんがこの人と娘さんとが仲悪いのでこうしていつもいるのだという、足の悪い寡黙な女性が気になっている。ちゃんと話すときは話す。一人ひとりの物語。

あと、猫たち。どら猫が魚を加えて、それをカメラが追いかける。多分、移住者カップル。街猫を増やしてしまう。近所の人たちは賛否両論。でも猫たちはなつくようになったという。観光客も猫ずきが来て・・・

『港町』に見る、想田和弘ドキュメンタリーの力 濱口竜介が解説 『港町』『ザ・ビッグハウス』

テキスト 濱口竜介 編集:久野剛士https://www.cinra.net/column/201804-sodakazuhiro

<『港町』を見て、素直に驚かされるのはそこに刻印されている作家・撮影者=想田和弘の「近さ」への意志だ。前作『牡蠣工場』(2015年)に続いて、彼は岡山の港町・牛窓のコミュニティー内部へと「観察」のために入り込もうとする。彼が提唱する「観察映画」という呼称がもたらすイメージと裏腹に、そこでは傍観者的な姿勢は希薄だ。むしろ絶え間ない「交渉」の過程が、排除されることなく映画内に残っている。

 交渉は基本的にカメラ後ろから、被写体に向かって呼びかけることでなされる。質問をされることで、被写体はただ単にジッと写されるよりも安心してカメラの前に居られるようにも見える。逆に被写体から問いかけられれば、撮影者も何者かを答えていく(「ニューヨークから来て」「ドキュメンタリー映画を撮っている」など)。

<最終的にこの「近さ」の原則は、撮影者と観客を思わぬ境地へと引き連れて行く。賭けは、『港町』にドキュメンタリー映画としては破格に美しいナラティヴ(語り)を与えるという結果を生む。

 終盤、それまで見えなかった町の深部を示す、あるできごとによって、観客はそれまで抱いてきたこの町に対しての認識を改めるよう迫られる。ただしそれは、観客がこの「町」についてより深く理解することを必ずしも意味しない。観客が触れることになるのは、極めて具体的な「わからなさ」だからだ。‥>

観察映画『港町』で、町と人を言葉より愛と映像で伝える、

NY在住の映画作家、想田和弘監督来日インタビュー。

髙野てるみの『シネマという生き方』VOL.16 https://screenonline.jp/_ct/17158601

<残念なことに、牛窓町という自治体は04年に合併され、瀬戸内市になった折、廃止に。が、牛窓という名前は残っており、過疎化が進む中、高齢ながらも未だ漁師であったり、鮮魚店であったり、(金棒引きのようでありながらも、少女のようにピュアで元気な)老婆、野良猫たちも元気いっぱいに生きている。皆が自給自足に満たされ、豊かに生き生きと暮らしている。

──「観察映画」って、ドキュメンタリーと、どう違うんでしょうか?

「ドキュメンタリー映画の中に『観察映画』が入っているというかんじですかね。『観察映画』という手法なりスタイルは、ドキュメンタリー映画の原点に帰ることだと思っています。『観察映画』の源流というか、手本にしているのは60年代にアメリカなどで起きたダイレクトシネマっていう運動なんですが、ナレーションもなしで、予定調和的に撮らない。この世界に対して直接的にカメラを向け、採れた音と画像だけで構成していく。代表的作家としては、フレデリック・ワイズマンや、DA・ペネベイカーとかがいて、彼らを手本に自分なりにアレンジもしたのが、私の『観察映画』なんです」

──演出なしということになると、普通の人の営みに過ぎないけれど、映画の中で、あれだけ観る者を惹きつける場面や登場人物の言葉に恵まれるというのは、やはり監督の引き寄せ力が強い、ということになりますね?

「いや、逆です。僕の方が引き寄せられたんでしょう、クミさんとかに(笑)。町で行き当たりばったりでカメラを回して、で、それでどうなるかっていうことを、出たとこ勝負で撮っていると、そのうちに、今回の場合は、まさに岸辺で偶然ワイちゃんに出会って、漁を撮らせてもらって、獲れた魚をどこに売るのかなと思っているうちに市場へ、そうしたら、それを競りで買った鮮魚店の奥さんに出会い、どう売りさばくのか、またついて行って……と。そして、突如、フレームにクミさんが乱入してくる……(笑)」

イベントデザイン演習。

受講生のなかで一人、葬祭を扱うことに違和感を持ち続けている。イベントとはたのしいものだという気持ちがあって、まあ、そうだろうなとは思う、

実は、葬祭業についての研究論文を最初に紹介したのは、卒論の書き方という意図だった・・・

いずれにせよ「生と死」に直面すること。アーツの誕生と生成がここから来るからなあ。

確かに『黒い雨』(今村昌平監督)の他に『鏡の女たち』(吉田喜重監督)を「黒い雨」つながりで、もちろん田中好子論として続けてピックアップしたのは初めて。最初にキャンディーズのラストライブの「つばさ」を観たあとだったが、原爆被災の強さはふっとばしたような感想が多く見られる。

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by kogure613 | 2018-07-04 22:08 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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