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アーツマネジメントの本質(essence)=「間(ま)」 

2020/8/14(金)

姫路のお墓参り、今年は中止。

電話でもしておく必要があるな。

 

ツイッターで、話題の報告書。経産省の産業構造審議会のものらしい。2016.11.15 未来開拓部会

https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/data/pdf/20161215001_01.pdf 

14/32の右半分 「日本人が大切にしてきた感覚・感性の仮説例(未定稿)」「美意識・芸術への影響の例」

 

 

https://twitter.com/hayakawa2600/status/1292872560963489794

 

間のところ。誰でも考えつく話しなのだろうが、昔から、アーツマネジメントの「マ」の説明を同じように自分もしていたので、なんだか、奇妙な気分になる。

本にしたのは、2013.3『アーツマネジメント学』水曜社。

71-76

 

<第一節においては、芸術営の定義をする前に、第一章で示したような大学における教学上の工夫をもう少し紹介しておきたい。そのことが、以降の定義論、分類論とも関係するからである。

 まず、黒板に「アーツマネジメント」と書き、アーツマネジメントの基礎(basis)は「ト(と)」だと、最後の「ト」に印をつけ、つぎに、アーツマネジメントの本質(essence)は「マ=間」、そして、アーツマネジメントの実践(practice)はその左横の「ツ(動詞)」とマークすることで受講者に印象づける。こうい工夫もしつつ、以下の(1)~(3)のようにして、その内容を説明している。

 

(略)

 

2)アーツマネジメントの本質(essence)=「間(ま)」 

「と」というアーツマネジメントの基礎は直球だったので、すこし受講生に参加してもらうために、本質論(さまざまな「間」=「と」という基礎が有効に機能するための適切な距離・間隙の取り方)を語るまえに、「間」のつく言葉を書くようにしている。

「間」という漢字なので、「ま」という読み方でなくても「ゲン」「カン」「ケン」でもいいとする。その際、時間があるときは、小説家、随筆家で夏目漱石の門下生であった内田百閒(18891971)を紹介して、「間」はもともと「閒」という漢字であり、月が出て「門」から月の光が漏れている様を表した形象であるということをいっておく。イメージ的に「間」の美しさ、大事さに気づくための補助線である。

とりあえず、だいたい、受講生は、次のような熟語や言い回しを書くということになる。

「合間、隙間、期間、間遠、間近、居間、客間、仏間、間取り、間合い、間違い、間抜け、間引き、間延び、間を取る、間をさがす、間をつくる、間に合う、間を詰める、間が悪い、間男、仲間、間柄、中間、間奏、狭間、雲間、間一髪、間髪を入れず、昼間、夜間、眉間、瞬間、間接的・・・」  

そのなかから、大事な漢字の「間」を以下5つ挙げておく。

「間」の第一は「時間」である。実演芸術、とりわけ音楽は時間芸術とも言われるように、芸術には時間、時刻、タイムマネジメントが創作の期間においても、鑑賞の時間においても、ともに必要になる。具体的には、実演芸術でいえば、そのアーツプレイスにおける開演時刻と終演時刻、間に休憩を入れるのかどうか、いつの季節がいいか、どれほどの期間を設定すると最大の収入になるのか、批評家などが来てくれる時刻はいつかなどなどとともに、アーツそのものの意味としての持続と断絶、実演芸術の本質的要素としてのリズムの問題である。

美術館など視覚芸術のアーツプレイスにおいても、その展示の期間、芸術場を開場する時刻、とくに、夜の展覧会サービスの意味なども大事である。鑑賞者の鑑賞時間における自由度は高いが、作品によれば、最低どれぐらいの鑑賞時間が必要かという調査と事前アナウンスも役立つサービスであろう。生きた植物の展示である華道では、その変化をどう扱うかという課題がある。

 

第二は時間との対としての「空間」である。実演芸術における本質的要素が時間であるように、造形芸術・工芸は空間が要素であるとともに、空っぽな場所がなければそれは造られることも鑑賞されることもないのである。設置のためのスペース、鑑賞するための距離をどうとるか、美術館もギャラリーも空間の意識化、あるいは、そこに何もないこと、「からっぽ性」が芸術場(アーツプレイス)の第一義となる。映画や映像を活用する美術に関する視覚芸術では、観者を入れる空間とともに闇が必要であって、実演芸術、とりわけ演劇ダンスと通じる芸術場特性がある。

純粋な時間芸術である音楽ですら、響く空間の質が重要であるのは言うまでもなく、演劇ダンスとなるとその経過を感じる容れ物の舞台美術や照明など空間特性(舞台の奥行きや高さ、幅)に大いに影響を受ける。なお、文学の鑑賞には大きな空間はいらないので、言語芸術には空間の要素はあまりないのかも知れない。しかしながら、書物の大きさや読書の環境もまた空間という要素であるし、書は造形芸術の部分を持っている。

 

第三からは、いささか抽象的になる。まず、「人間」という人と人の「間」である。人間一人ひとりが他者との関係の網目からできていることを示唆する「人間」という熟語にアーツマネジメントにおける他者コミュニケーション、対話・交通の意味を再考することができる。人間のなかには、創作者と鑑賞者、そのあいだをつなぐアーツ・ジャーナリスト、批評家、そしてアーツマネージャーが存在するのである。

鑑賞という形でないアーツの享受方法、たとえば、アーツワークショップにおいても、そのファシリテーター(アーティストなどが芸術技術の教師としてではなく媒介者として場をつくる)と参加者、マネージャーの関係がワークショップの独特の「間」合いづくりとなる。この場合、あまりにも親しくなると距離がなくなっていくことで、社会との接点がなくなっていくという問題をワークショップ過程で生じるために、外部発表などの機会をあえて設けることで、外部評価を受けることが必要になることが多い。とくに外部資金をファンドレイジングした場合においては何らかの成果発表が不可欠になる。劇団、楽団というような芸術団組織もまた人と人の「間」の機能分化と統合の必要からうまれたものであり、これらは、のちの芸術団営論として丁寧に議論する予定である。 

 

第四の「間」は、世間である。世間は「社会」という明治時代に作られた翻訳語の前からあった言葉。世間とは、社会よりもより人間くさい感じがする。でも、本来はいまの社会性、公共性とつながっているものでもある。明治以降「世間の目」とかそういう否定的な俗世的な使われ方になったが。芸術における世間性というのは、社会へのレスポンスビリティ(責務)や説明責任(アカウンタビリティ)に関わり、世の中にアーツが出かけて、世間の人びとの目の前でアウトリーチ(出前)するというイメージが生まれる。

また、世の間というのは、今の世と過去の世というように、時代を超えて社会をつなぐ意味にも発展できる。さらに、比喩的には、この世とあの世というように、超現実世界を芸術の形で表現することをも含意していると見ることもできよう。

 

最後、五番目の「間」は、「間地」=まちである。これだけ訓読みになるが、実は、「まち」の語源説のひとつに「間地」あるいは「間所」「間処」から「まち」が生まれたという説がある。ほかにも、ヒマミチ(間道)など「ミチ」との関連の説もあるが、間(=多様性、隙間、自由)のある地という意味としての「間地」という考え方に共感を覚えてこの説を援用している。いささか、比喩的ではあるが、この学説を活用して、まちとは異なる人たちが共存・交通する場であり、そういうまち性を意識し、異なる人達の異なる感性、その批評こそがアーツの重要な「間」だと捉えることが大事であると思っている。

 

なお、名詞の「ま(間)」の説明はこれで終わりだが、脱線的に、ま=真に言及し、まこと=リアルとはなにかがアーツマネジメントでは重要なテーマになることを付言する。さらに、真と逆の「魔」魔術、魔法、魔力の魔に話を展開し、リアルとマジックの神妙で逆説的な組み合わせに意識を誘う。「目(め)」の古語的「ま」を援用し、まなこ、まつげ、まゆげ、眼差しの目(ま)というふうなことも指摘することもある。>


by kogure613 | 2020-08-14 22:00 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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