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ジャズを聴きながら、岡田暁生著『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』の引用など

11/23(木)
休日ということを忘れていて、早く起きたのだがまた寝る(大阪、精華小劇場のみなさん、行きますといっていて引きこもり、すみません)。
昨夜ある電話があって、じぶんがずいぶん思い違いしていたことに気づく。
何をいまさらの世俗的色気ぞ。
もともと役人をやめたときすでに若隠居気分だったわけで、そのご隠居さん的ないい加減さ、肩の力のいい具合の抜け加減をちょっと忘れていた。

○ 足元の野菊は見ずや老い眼鏡   沌豚
○ 俗念を捨て去りたくて秋篭り   沌豚
○ 白髭やサンタの準備に託(かこつ)けり   月豚

ジャズの歴史を少し解説しようとして、CDをいくつかかけながら(キングオブディキシーランドジャズにデューク・エリントンやサラボーン、ソニーロリンズ、MJQ、カーティス・フラー・・)『オペラの運命~十九世紀を魅了した「一夜の夢」』(岡田暁生、中公新書、2001)を読んだりしている変な日だ。

同じ、岡田暁生著『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』(中公新書、2005)では、226~227ページにかけて、以下の引用にみられるようにモダン・ジャズを紹介していて、教えられることが多い。

なお、P10にあるような「西洋芸術音楽」の定義(=“聖職者や貴族などの知的エリート階級によって支えられ、主として、イタリア・フランス・ドイツを中心に発達した、紙に書かれ設計される音楽文化”)も、的確なものだと思う彼と音楽に対する志向とか接し方が私などとずいぶん違うのは当然であるとしても(リヒャルト・シュトラウスがドイツ留学中の岡田氏の研究テーマだったと書かれているように、19世紀ロマン派への愛を隠さずに記述している点も潔くていい感じ)。
・・第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、私の考えでは、1950-60年代のモダン・ジャズである。大戦前のディキシーランド・ジャズやデューク・エリントンのビッグバンドやベニー・グッドマンのスイング等は娯楽音楽の領域を大きく超え出るものではなかったが、それに対して戦後のモダン・ジャズは、一種の「芸術音楽化」の路線を歩んだ。マイルス・デーヴィスやジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクやビル・エヴァンズ、あるいはバッハ演奏でも知られたMJQなどにおいては、「即興」はほとんど見せかけにすぎない。楽譜として書き下ろしていたかどうかはともかく、演奏の細部に至るまで、彼らはあらかじめ相当緻密に設計していたはずだ。・・・・・

(中略)

 かつては「作曲上のさまざまな実験を試みる」ことと、「過去の名作を立派に演奏する」ことと、「公衆に広くアピールする曲を書く」ということは、決して分離した活動ではなかった。たとえば、フランツ・リストは、時代の最先端を行く前衛作曲家であり、ベートーヴェンの『皇帝』や『ハンマークラヴィーア・ソナタ』なども演奏する巨匠ピアニストであると同時に、現代のロック・スターにも比べられるような人気アーティストであった。だが専門化が進んだ今日では、ごくわずかの例外を除いて、複数領域をハイレベルでこなせる音楽家がほとんどいなくなってしまった。このこととも大いに関係しているのだろう。この三つの同時代現象に対して絶えず向けられるところの、ステレオタイプな批判パターンというものがある。前衛作曲家の場合は「公衆を置き去りにした独りよがり」、クラシックの演奏畑の人間の場合は「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」、そしてポピュラー音楽の場合は「公衆との妥協」だとか「商品としての音楽」といった非難である(一時的だったにせよ、「実験」と「過去の伝統の継承」と「公衆との接点」との間の媒介に文句なしに成功した二十世紀後半の唯一のジャンルが右で触れたモダン・ジャズである)。

by kogure613 | 2006-11-23 21:23 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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