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NO-MAへ。27日からの『ウチナル音―身体音からの造形』。

1/30(火)
今日から後期の成績が入力できるので、さっそく入力する。
2/12までは訂正できるので、もし、何かがあればもちろん対応してあげることにはするが、一応、すっきり。個人研究費の処理も終了、そのあと、すこしだけ原稿がすすむ。

自治省の同期(16名)の一人Tが亡くなったと電話があった。最後のほうはどこか影が薄かったけれど、大学の教養時代も同じクラスだったし、いいやつだったなあと、冥福を祈り、芳江にお願いして弔電してもらう。確か広島出身。4人目か。一番初めは、K県から帰ってきて山手線に飛び込んだ(奥さんはそう思いなくないと当時言っていたようだが)Kくん、2番目のMくんも自死で(首を吊っていた)、3番目の国会議員になっていたNくんはガン。今日聞いたTくんの死因は聞かなかったが、病気だろう、たぶん。

昼間、暖かい。近江八幡でバスに乗ると、平和堂で買い物をして帰るおばあさん二人が、博労町で火事が昨日あったという話をしていた。ボーダレスアートギャラリーNO-MAへ。門が広々。門の前に、すでに金沢健一のオクターブが鳴り分けられる鉄のオブジェが、二組。撥も置いてある。帰り、ずいぶん鳴らしていたら、小学生たちが少し気にしながら、でもずんずん歩いていく。わたしと同じ関心ごとだった。実は博労町というのは、NO-MAのすぐそこで、火の粉もかぶったのではないかということ。休館日だったし危なかった。事業団のSさんが飛んできたものを拾っている。

夫婦でやっていた印刷工場。夫の方が亡くなったという。焼け跡をこうして観るのははじめてに近い。小学校の頃、大きな火事があってそのとき見たという記憶があるが、内容は覚えていない。ただ、そのとき嗅いだ臭いだけがよみがえる。確かにこういう臭いだった。隣に謹告。お葬式の通知書きである。今日は二つの死の通知。一人は知り合いで一人は知らない人。でも、まったく他人事ではなく、なんだかあっけない感じがして呆然となる。火事で焼けた遺体の処理はどうしているのだろうか。事件による葬送というのは、自分らしい葬式、生前準備という話とは対極にある。地域が不慮の事故にどうバッファーとして働くのか。博労町を歩いていると、男性たちが葬式の段取りについて話していた。

さて、NO-MAに戻ろう。27日からの『ウチナル音~身体音からの造形』。耳と目、体で受け止めるアーツ体験である。全国公募で広島県福山市(福山六方学園)のクシノノブマサさんが選ばれて、基本コンセプトはそのままに、でも、はたさんや藤本さんはじめ、いろんな人の意見を柔軟に取り入れて、予想以上に静謐で気持ちのいい展覧会を開催していただけてよかった!というのが、大まかな感想である。

じょじょに耳が敏感になるので、NO-MAの空調の音、特に裏の機械音がやけに響いてくる。金沢健一の鉄の厚さの違いによる作品に、いろいろな種類の玉や胡桃などを落として、音を聞き分ける。ピンポンが飛び跳ねる。音が粒だって来て、皮膚で感じるようになるのに数分程度しかかからない。

もう、NO-MAのウチナル(≒おうちが鳴る)状態と自分の皮膚の感覚がシームレスになってくるのだ。

詳しくはMoreにて。



ドアを開けて倉へ。小川由文の映像が飛び込んでくる。加工したものもあるが、日常の動きをそのままビデオカメラに収めたものもあって、長いすの裏を進むダンスとか、お風呂で水中ダンスするシーンとか、それがダンスそのものかどうかという詮議とは無関係に、日常にある風景、身体動作のヌードな世界を目の当たりにしている。部屋の畳が傷んでいて、彼が踊っているあいだ、あんまり関係ないよという感じで座っていたりしている他のメンバーの姿も印象的だ。

何度も書いているが、未開拓で考えがうまくまとまらないまま模索しているアウトサイダーパフォーミングアーツ領域についての重要な記録である。風船を頭につけているのは、少し映像で反復して観ていると痛々しい感じとか哀愁とかを感じてしまうこともあり、ステージ上で非日常的な装いのもと、照明が当たり、注目されて見られているという部分とは別の観点、彼がどこまで自覚的なのか、かってに取り巻きとか私たち鑑賞者が喜んだり解釈しているだけではないか、美術製作のための刺激にしているだけにならないように気をつけなくちゃ・・といういつも感じる戸惑いとか後ろめたさを感じたりもする。

2階へ。玄関側の縁側には、同じく福山六方学園の橘高博枝の墨の『モノローグ』。大きな白い立方体に展示されている。彼女がこういう形にしたくてしたものなのか、はじめから立方体なのかどうか、少し分からないが、映像によるとはじめから立方体のようだ。古代の解読できないような文字の群れ。映像が背中を向けられている。福山からの参加の意義はこうして関西以外の障碍者アーツを一番よく知っているアートディレクターの手によって丁寧に紹介してもらえることである。

真ん中は、1978年生まれという若手の森本絵利の作品。細かく細かくひたすら切るひと。それをばらばらにしないで引き出しにそっとしまい、机の表面の模様になり、瓶に収納されている、あたかも顔料のように、顔料として何かをまた生み出す素材のようにして(実際はそのままそこにあって細かく刻まれてきた時間をひっそりと退蔵しているのであるが)。

そして、作品をきってゆく鋏と紙が作り出す音。この音がなかなか手ごわい。しゃきしゃきしゃきしゃき。正確に刻まれ音を累積する。累積した音が結果として細い細い短冊というか爪楊枝というか、紙の切れ切れとなる。そう、作品を作る音がまた作品インスタレーションとなっているわけで、金沢健一でもDVDでは音が鳴っていて、それも作品インスタレーションではあり、また、橘高も次に紹介する木村茜も映像が作品に入り込んでいるわけで、こういうところがこの展覧会の作り方の大きな特色になっているとも言えそうだ。

結局、音が2階には3種類も存在していることになる。したがって、うるさくならないよう、音がまじりあって一つの作品に集中できなくならないよう、神経をずいぶん使って、聞こえないわけではないが、気にならない程度の感覚とボリューム、視覚的独立(木村茜の展示は薄暗く林に取り囲まれているような設置)になっている。1階の音が2階に来るかどうかは、私が2階にいたときは誰も鳴らさなかったので、分からないが、あんまり気にならないのではないかと思う。

さて、木村茜のシンプルな作品が、2種類。「うちわ」8点、「お線香花火」8点。同じ数、同じようにウィングで取り囲み、真ん中で座布団に座りながら、その2種類の作品が出来る様子を見る、聴く。同じ敷き紙があって、そこに、線が音を立て、腕がゆるぎなく動いて、下敷きに出てもお構いなく、短い時間でさっと一つの作品が作られる。身体が音を出しているというよりも、身体と紙が出会い、作品が浮かびあがるまでの時間が音とリズムとダンスになっているものだというほうが、少しは体験したことに近づくだろうか。

帰ろうとすると、大学生ぐらいの年齢の人たちが集団でやってきた。手に何か周遊手帖のようなものをみんな持っていた。どこから来たの?と聞くと自分は姫路という答え。どういう機関の人たちなのだろうかという思いで聞いたが、まあ、いいか。遠くから来た人たちを残して(少しおせっかいをはやくしすぎたかしらとは思ったが)、鉄をみんな夢中で鳴らしているすがたを後にして門を出た。
Commented by しん平 at 2007-01-31 12:46 x
ああ、小暮さん。ようこそ、近江八幡へ。あの時、僕は学校の中庭にある鶏小屋の掃除をしていました。何人かの教員が煙があがっている方角へ走り出したので、僕も鶏をほったらかしにして、2階のベランダに登って、煙の方角を見たのでした。後で一人、おじいさんが亡くなったことを知り、そういえば、日曜日にノーマに行った帰りに燃えた家に入っていく毛糸の帽子をかぶったおじいさんの後姿を自転車に乗りながら見ていて、ああこんな人が住んでいるのかと、認識したなかりでした。

今回の展示、なんか一つインパクトというか、主張というか一味足りないような感じが残っています。素人ゆえの生意気な発言ですが・・。
Commented by kogure613 at 2007-02-02 20:00
なんだか、その「毛糸の帽子をかぶったおじいさんの後姿」のコメント、数奇な遭遇ですし、ノマに来ていただいたということで、また感慨が深くなりました。展示に関しては、少し大人しくしていただいたことで、そういう印象が出たのかも知れませんね。音という部分を使っているためかも知れません。小暮宣雄
by kogure613 | 2007-01-30 12:35 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(2)

こぐれのぶお・小暮宣雄 写真は春江おばあちゃんと・サボテンの花嬉しく 


by kogurenob