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劇団八時半公演『むかしここは沼だった。しろく』など

2/16(金)
昨日、学生支援課から、ココルームのインターンシップの件で相談の電話。
7/31でフェスゲを退去するので、インターンシップの期間を7/31までといわれているのですが、授業(最終テストなど)の関係で無理(単位との関係もあり)なので、どうしましょうか(お断りしていいでしょうか)?というもの。

去年せっかくココルームのインターンシップを制度化して実際に一名お世話になったのにとても残念なのだが、しかたがない。
こんど4回生になる学生でだれか、ここのスタッフをして(はじめはインターンシップ的でも徐々にボランティア的精神が必要かも)、その知見をもとに卒業研究をしてしまおう(就職活動はココルームと平行して行うことで企業選択眼はきっと養えるよ)と思うような豪快な学生はいないだろうか。上田かなよさんも常勤スタッフを求めているし・・。

テーマは、いろいろ見つけられるが、まず、都市行政と文化NPOとの関係がメインだろうし、芸術と就労支援、芸術が社会と協働することは可能か、アーティストとアーツマネージャーが地域とどのように協働しているのか、これからの働き方とは?
もちろん、まちおこし、まちつかい、創造都市論などなどにも適用できるし、観光としても新世界があり、オールタナティブツーリズムとの関係で体験としての釜が崎ツアーなど、さまざまなテーマがそこにはある。

大学に行く前に、つき山いくよさんからメッセージが返ってきていた。要件は、わたしの肩書きについて。
でも、彼女からのメッセージのタイトルは、「できることと、あごがれることの隙間で」だった。うむ。はじめのメールタイトルは「春の嵐」だったし、なるほど、メールタイトル・コレクターが出現するはずである。

なお、実に実務的にいまよく使っていて短いのでそれなりに気にっている「小暮宣雄@京都橘大学」としたが、「肩書き」とは何かと考え出すとこれはこれでどつぼに入る。

「肩」は小林昌廣先生も前からずっと言われていたように、個が「世間」に向かう風当たりの強いところで、だから肩が凝り、肩で風を切らなくちゃいけなかったり、肩の荷が重かったりするわけで(だから、よいしょっと肩の荷を下ろすわけだ)、その個が社会に向かうもうひとつの顔のようなこの「肩」にどういう「書き」ものを入れるのか。

だから、小暮@地域芸術環境研究とか、こぐれのぶお@芸術探偵とか、こぐれん@観客プロ(自分で「プロ」と称するのはかなり怪しいか)でも、まあいいんだが、世間ではその顔って何なの?と思われないでしかも、まあ、そんなに重くないと昔よりはいえる(一応、自治省とかそんなものよりは)いまのこの大学名にした(つき山さんがいま作られるHPではまあもっと楽しいものでもよかったのだが・・)のである。もう「文化政策」もこの大学名とともには背負えないように来年からはなるしなあ(楽なようなさびしいような)・・・そうそう、肩の成句には、「肩を持つ」『肩入れ」「肩を並べる」「肩が怒る」「肩代わり」「肩叩き」「肩で息をする」「肩肘張る」「肩身が狭い」もあったなあ(これで調べた)。形無しは、肩ではないが、肩と型と形と方と片と・・つながっているようにも思える。

今度4回生になるゼミ生が午後、研究室にやってきた。どうも、就活用の写真を取りに来たついでみたい。じつは卒業研究のテーマが彼女に迷いがあって(というよりも、わたしが何でもいいよということもあり、定まらず)、あれこれ。だいたい決まりそうでよかった。
ホントは午前中に原稿を仕上げるつもりだったのに、午前中、うまく執筆(といってもカタカタ)体制に入れず(3・3,3/4の日本アートマネジメント学会関係の動きがようやく分かった)、夕方になってようやく。「第3章「アーツを暮らす」―術としての冠婚葬祭―」の「第3節 冠婚葬祭をアーツマネジメントすることの意味」を脱稿。本文の文字カウントで21000字を超えてしまう(注も5000字強)。いちど、多すぎないか学会事務局に聞いてみよう。さて、今度は、文化経済学会の原稿だ!

ウイングフィールドの最前列にすわる(段差が小さかったのですこし腰がいたくなった、90分ぐらいなのに・・)。となりに元劇団八時半の東さん。さっそくはなのチラシを渡す。
いつものように女性の歌。作・演出の鈴江俊郎さんのBGMはたんにBGMだけではなく、開始と終了においてとても重要な役割を果たす。

今回の劇団八時半公演『むかしここは沼だった。しろく』は音楽ばかりでなく、鳥の鳴き声や、古生物の声音(ちがうかも知れないが、わたしには、時間的にすごく遠くからするきしみ音のように思えた)がとても重要なように思った。音響:狩場直史。

倉敷市芸文館アイシアターで2公演のあと、ここ大阪市東心斎橋のウイングフィールドで12公演(今日から25日まで)、そしてこまばアゴラ劇場で7公演である。
はじめからハイテンション。いつものように、いや、いつも以上に。からだ、大丈夫だろうか、少し心配である。

みんなが、いらだっているのか、世界の葛藤が出ているのか。あるいは、演劇界など身内的な閉塞性のゆえんなのか。ただ、二度目の繰り返しがアンチリアルな裂け目をもたらし、どつぼに入り込ませない。巧みな処理。コミカルでシリアス、おっと、どこかで聞いたような、逆か、シリアスとコミカルの走馬灯。
ときおり淡々と語る部分が身に沁みる。そして、鳥の間が抜けた声。

みながら、演劇って、4つぐらいに分けられるかも知れないなあと思ったりする。
一つめは、演劇そのものを問うような実験的なもの、絶対演劇とか言われたりしたかも。
二つめは、その対極で、演劇の内容、そこにテーマが明確にあってメッセージを使えようとするもの。演技や演出、美術や効果は、その内容をいかに観客が食いつきやすくしようとする表現手段となる。メッセージ演劇とでも呼んでおくか。
三つめは、まあ、商業的な成功が第一、あるいは、それで人が集まればいいや、というもの。これは演劇としては邪道みたいだが、まあ、そういうものも一応入れておくと、二つめのものがそれに使われることが多い。分かりやすいものでないといけないから。商業演劇といってもいいが、まあ、演劇利用イベントというほうが分かりやすいか。

四つめが、いま思いついたので、ちょっとこなれていないのだが、連想演劇とでも呼びたいもの。八時半の演劇はじめ、小劇場演劇では一つめの絶対演劇やそれに近い抽象度の高いものもあるが、ほぼ、これである。他方、一つめの絶対演劇では、舞台上で見えるものは、なんでもよく、その中身とかよりは、形式、演劇とはなにでなにでないか、とか、メタ演劇、メタ芸術的な思考に満ちているもので、記号論的に言えば、テーマや内容にあたるものは、単なる「信号」である。

さて、四つめのものは、メッセージ演劇とおなじく、テーマや内容は一応あるように見える。ところが、見る人によってさまざまで、何にもないよ(自分で考えるの、めんどうだよ)、困ったという人も出てくる。困らないのだが、それは、何かを連想させてくれればいいので、その何かの多様性とか、豊富さ、意外さが、その演劇の出来と緊密につながっていると思える。
あと、想起されるものが、その演劇内容と密接につながっているようなとき、「直喩型」といっておきたいが、そういうものと、ぼんやりとしているが、いろいろさまざまに想起が飛ぶフックがあるような「隠喩型」に4つめの連想演劇にも分かれると思う。

今回は、ちょっと直喩的要素が多かったのでは(「語り継がれもしないで」という部分などは劇中でも直喩的に登場する)、というのが、うーん、まどろっこしい書き方になったが、わたしの感想。すこし複雑に展開すると「換喩(提喩との区別はつきずらいけれど)型」の部分もあったりするのだが、また、いろんなお芝居でも考えてみてから話そうと思う。
by kogure613 | 2007-02-16 23:34 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

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