マルガサリ版『桃太郎』第5場@一心寺シアター倶楽
2007年 08月 21日
8/21(火)
久しぶりに大学へ。午後の準備として、「発信」って英語でなんというのかと調べてみる。
語学力が皆無なのでだれかに教えてもらいたいが、まあ、sendとかdispatchとかが発信するということのようだ(翻訳サイトによる)。
dispatch(恥ずかしながら知らないor忘れ去った単語)というのは、なんだか、急いで送る感じでインターネットやメールぽいので、sendより、どうもこちらが使われることが多いようだ。で、「dispatch 発信」でグーグル検索してみる:
理髪店発信!「ヘアデザインの発信」って、発毛とも関係あるのかなあ。ピンピン毛が立っている感じかな。
ディスパッチ!これは情報をただ集めているということかな。
dispatchを新英和中辞典で調べると、「急派(特派)する、急信を発送する。やっつける、すばやく処分する、さっさと食事を済ます。片づける、殺す(kill)」となっていて、へーとか思う。発信とともに殺害もあって、なんと、happy dispatchは、切腹なのだそうだ(戯言とはあるが)。
まあ、何もこれで分かることもないのだが、いまの行政の文化プランの流行(たとえば大阪府の「おおさか文化プラン」はそのトップが「大阪文化の再発見と情報発信」)は「世界に文化を発信する」ということだけど、どう訳されているのか、そして、それは他国に翻訳できる文化政策なのかどうか(日本の独自性としてあってもいいのだが)も知りたいなと思う。いまの日本の文化力主義、文化発信主義のなかで。
ついでに、日本語源大事典をパラパラ。
ブランコの語源。この事典では(p983)柳田國男説(ぶらんとさがってゐるから)が「妥当か」とあるけれど、検索すると他にポルトガル語説もある。でもこれは「バランソ」という発音だからどうもかなり遠いので、やっぱり、子どもなどが、ねえ、ぶらんとしているよね、だから、ぶらんコ、っていわれたっていうのんびりした柳田説のほうがかわいい。
さて、滋賀県の方がたが来て、今日のお仕事。発信をめぐっての文章調整、何とかなりそうだ。
お盆は滋賀県庁ではほとんどの人が休みを取り、クーラーをつけずに節約している(課長など一人だけ扇風機で仕事をする)というニューズを見ていたので、これはてっきり嘉田県政のもったいない政策かと思ったら、20年ほど前からずっとやっていたということ。
発信問題も一段落かな。ほっとして、一心寺シアター倶楽へ。
滋賀県でも「限界集落」問題があるという話をしていて、ちょうど、四天王寺で出会った方が商店街とそうでない商店の差という話を聞いて「限界商店街」という単語もあっていいなあと思う。限界芸術とは違うみたいだけれど、まあ、ボーダー上という意味では同じかな。それにしても限界集落として集落がなくなる危機は、お祭など地域文化の崩壊として極めて緊急を要するもんだいだし、そういう地域集落に限界芸術があるわけで、限界集落における限界芸術の限界問題ということになるわけだ。
さて、去年(2006.9.10)、碧水ホールで通しを3時間半以上かかって体験したマルガサリ版『桃太郎』第5場を、10分の休憩をのぞいて、2時間に凝縮した作品を味わう。監修は、中川真(企画)、野村誠(音楽)、佐久間新(舞踊)。出演はガムラングループのマルガサリほか監修者ももちろん出ていて、かなりのかずとなる。
碧水ホールでは、いつ終わるのか、どうなるのか、何が何だか分からず、こちらも一緒に関係してしまったような感じだったが、少し懐かしい回顧録のような感じもしつつ、でも、どこがどう省略され代わり、そして、新たに考えられたのか、少し知的な興味とか、音楽の構成を見つけたりとかしつつも、十分に楽しんだ。
このマルガサリ版『桃太郎』は、先駆的な音楽舞台芸術(「ガムラン・ミュージック・シアター」と名づけられている)として鑑賞してももちろんいいのだけれど、鑑賞者はいろいろな観方、観察の仕方が出来る。
私などは、いろいろな民話や民族楽器、神事、民俗文化・芸能が交じり合い、専門的な演出などのディレクションを最小にして、即妙な即興と演者たち同志や客席間との観応を要点とした作品であるので、先端芸術と限界芸術の幸せな出会いと相互刺激というこちらの仮説の大切な実証的なフィールドでもある。
たとえば、祭りの踊りの輪に大鬼と小鬼が乱入するシーンが、ひょっとしたら、盆踊りと同じく、精霊と踊ることが元々想定されていて、さらわれた花子さんの救出劇は、鬼への捧げものとして諦めていた古代からの脱却の神話としてみることもできる。また、桃太郎も山の神様から流れてきたのだから、鬼の世界と桃太郎を生んだ神様の世界とはどのような関係なのかしらと、どうでもいいようなことを思ったりもした。牛が踊ったりする神事だけではなく、鬼が島へと旅ゆく道行は、お祭の際の神様へ捧げる奉納芸能としてみることもでき、そう考えると、サルのカラオケの朴訥とした滑稽芸など地域の人びとの素朴な芸に近いほうがこのステージにはふさわしいのかも知れない。
久しぶりに大学へ。午後の準備として、「発信」って英語でなんというのかと調べてみる。
語学力が皆無なのでだれかに教えてもらいたいが、まあ、sendとかdispatchとかが発信するということのようだ(翻訳サイトによる)。
dispatch(恥ずかしながら知らないor忘れ去った単語)というのは、なんだか、急いで送る感じでインターネットやメールぽいので、sendより、どうもこちらが使われることが多いようだ。で、「dispatch 発信」でグーグル検索してみる:
理髪店発信!「ヘアデザインの発信」って、発毛とも関係あるのかなあ。ピンピン毛が立っている感じかな。
ディスパッチ!これは情報をただ集めているということかな。
dispatchを新英和中辞典で調べると、「急派(特派)する、急信を発送する。やっつける、すばやく処分する、さっさと食事を済ます。片づける、殺す(kill)」となっていて、へーとか思う。発信とともに殺害もあって、なんと、happy dispatchは、切腹なのだそうだ(戯言とはあるが)。
まあ、何もこれで分かることもないのだが、いまの行政の文化プランの流行(たとえば大阪府の「おおさか文化プラン」はそのトップが「大阪文化の再発見と情報発信」)は「世界に文化を発信する」ということだけど、どう訳されているのか、そして、それは他国に翻訳できる文化政策なのかどうか(日本の独自性としてあってもいいのだが)も知りたいなと思う。いまの日本の文化力主義、文化発信主義のなかで。
ついでに、日本語源大事典をパラパラ。
ブランコの語源。この事典では(p983)柳田國男説(ぶらんとさがってゐるから)が「妥当か」とあるけれど、検索すると他にポルトガル語説もある。でもこれは「バランソ」という発音だからどうもかなり遠いので、やっぱり、子どもなどが、ねえ、ぶらんとしているよね、だから、ぶらんコ、っていわれたっていうのんびりした柳田説のほうがかわいい。
さて、滋賀県の方がたが来て、今日のお仕事。発信をめぐっての文章調整、何とかなりそうだ。
お盆は滋賀県庁ではほとんどの人が休みを取り、クーラーをつけずに節約している(課長など一人だけ扇風機で仕事をする)というニューズを見ていたので、これはてっきり嘉田県政のもったいない政策かと思ったら、20年ほど前からずっとやっていたということ。
発信問題も一段落かな。ほっとして、一心寺シアター倶楽へ。
滋賀県でも「限界集落」問題があるという話をしていて、ちょうど、四天王寺で出会った方が商店街とそうでない商店の差という話を聞いて「限界商店街」という単語もあっていいなあと思う。限界芸術とは違うみたいだけれど、まあ、ボーダー上という意味では同じかな。それにしても限界集落として集落がなくなる危機は、お祭など地域文化の崩壊として極めて緊急を要するもんだいだし、そういう地域集落に限界芸術があるわけで、限界集落における限界芸術の限界問題ということになるわけだ。
さて、去年(2006.9.10)、碧水ホールで通しを3時間半以上かかって体験したマルガサリ版『桃太郎』第5場を、10分の休憩をのぞいて、2時間に凝縮した作品を味わう。監修は、中川真(企画)、野村誠(音楽)、佐久間新(舞踊)。出演はガムラングループのマルガサリほか監修者ももちろん出ていて、かなりのかずとなる。
碧水ホールでは、いつ終わるのか、どうなるのか、何が何だか分からず、こちらも一緒に関係してしまったような感じだったが、少し懐かしい回顧録のような感じもしつつ、でも、どこがどう省略され代わり、そして、新たに考えられたのか、少し知的な興味とか、音楽の構成を見つけたりとかしつつも、十分に楽しんだ。
このマルガサリ版『桃太郎』は、先駆的な音楽舞台芸術(「ガムラン・ミュージック・シアター」と名づけられている)として鑑賞してももちろんいいのだけれど、鑑賞者はいろいろな観方、観察の仕方が出来る。
私などは、いろいろな民話や民族楽器、神事、民俗文化・芸能が交じり合い、専門的な演出などのディレクションを最小にして、即妙な即興と演者たち同志や客席間との観応を要点とした作品であるので、先端芸術と限界芸術の幸せな出会いと相互刺激というこちらの仮説の大切な実証的なフィールドでもある。
たとえば、祭りの踊りの輪に大鬼と小鬼が乱入するシーンが、ひょっとしたら、盆踊りと同じく、精霊と踊ることが元々想定されていて、さらわれた花子さんの救出劇は、鬼への捧げものとして諦めていた古代からの脱却の神話としてみることもできる。また、桃太郎も山の神様から流れてきたのだから、鬼の世界と桃太郎を生んだ神様の世界とはどのような関係なのかしらと、どうでもいいようなことを思ったりもした。牛が踊ったりする神事だけではなく、鬼が島へと旅ゆく道行は、お祭の際の神様へ捧げる奉納芸能としてみることもでき、そう考えると、サルのカラオケの朴訥とした滑稽芸など地域の人びとの素朴な芸に近いほうがこのステージにはふさわしいのかも知れない。
by kogure613
| 2007-08-21 10:41
| こぐれ日録
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