糸賀一雄記念賞第六回音楽祭@栗東芸術文化会館さきら
2007年 11月 18日
11/18(日)
いちにち、栗東芸術文化会館さきらにいて、ずいぶん楽しんだ、お昼休みもなかったけれど、お腹がすいたとも思わなかったぐらいに。水はずいぶん補給した、午前中、2回のワークショップで汗を久しぶりにたっぷりかいたので。
あさ、JR。人身事故。障碍のあるみんなは車の移動が中心だろうけれど、それでも、心配しながらさきらへ。学生もなんとか、集まってくる。広場では、学童保育のフェスティバル。風強いけれど、こどもたちは元気だ。
糸賀一雄記念賞第六回音楽祭。ことしは、全館を使ってゆったりと行うことになって、まず、小ホールではじめての試み、「踊りと音楽の体験ワークショップ」が2回あった。ナビゲーターは、司会などもするやすなみずほさんと、一人で音楽をつくりあわせていただいた宮本妥子さん。あと、大きな映像はアフリカのサファリみたいなところ。象やチーター(この動きをダンスするのはタイヘン)、河馬などが動く。
最初のほうの参加者が多いということだったが、2回目もちょうどいい具合に集まって、最初の回では車椅子の人が数名いたので、気づくとうちの学生も車椅子を押したりしていた。こちらも、障碍者といっしょに踊るのはあまりに楽しいので、気がつくと2回とも踊っていて、厚着していた衣を一枚、あと一枚ととっていく。
ダンスはほんとうに身体を開放させてくれる。装飾して固定化してしまっている自分の薄皮を少しずつはがして行くワークショップ。リズムをまねるのも身体と耳の連動。2回目になると、学生たちもよりナチュラルにそこで動いているように思える。2回、ワークショップに出るというのは、ワークショップとはどういうものかを知るのはとてもいいことだろうと思う。
ファシリテーターのやすなさんとしては、少しやりづらかったかも知れない。が、さすがだと思ったのは、2回目、少し出始めのところが違っていたりしたり、小さな子がジャンベをたたき出したら、それを止めないで、うまくそれを活用したりして、これこそ、ワークショップの醍醐味!と思う。一人の学生がジーンズを破ってしまい平和堂にあわてて買いに走ったのも愉快なエピソード。
中ホールでダンスという身体表現だけを公演するのも、6回目ではじめての試み。最初、大阪からゲストできていただいだLOVE JUNXさんの黄色いTシャツといまどきのストリートダンスのリズムで会場が生き生きしたあと、ナビゲーターの北村成美さんと佐藤健大郎さんによる、さきらのダンスワークショップ・ダンス道場の人たちも交わった障碍者のダンスステージになった。ピアノと一つの体、から始まって、いつのまにか、いろいろな体がたたずんでいる。最初の一歩。それぞれの歩み。
ああ、これは、障碍者とともにあるべき「まち」(間-地)がここにあると思った。一つにまとまるのでもなく、単にばらばらでもない、留意とか注意とか、気配りとか、そういう言葉に近い関係がからだとしてそこにある。もちろん、からだはすこしずつかたまりから溶け出し、流れてゆく流動体となって、相手に向かい、また、まちに佇む。ピアノの生音でのダンスと賑やかなテープ音楽でのダンス、構成にも、見せる工夫が感じられる。
大ホール「合唱と打楽器演奏」ではこの音楽祭の原点である合唱にうたれた。ナビゲーター、林美紀さんや、作曲もした穂﨑奈名子さんのピアノ伴奏だけのコーラス。その歌っている人たちの顔がいい。もちろん、地声がそれぞれに聴こえるのももっといい。歌詞がところどころ聞き取れなかったりもするが、歌は言葉の霊化だなあと改めて思う。ことばのアニメーション。いや、「言の葉(端)」がアニマ(霊魂)だったことをもう一度取り戻すのが歌になって空中に響くこの合唱という媒体(メディウム)なのかも知れない。
京都新聞の記事(いつかなくなると思いますが、とりあえず)。
いちにち、栗東芸術文化会館さきらにいて、ずいぶん楽しんだ、お昼休みもなかったけれど、お腹がすいたとも思わなかったぐらいに。水はずいぶん補給した、午前中、2回のワークショップで汗を久しぶりにたっぷりかいたので。
あさ、JR。人身事故。障碍のあるみんなは車の移動が中心だろうけれど、それでも、心配しながらさきらへ。学生もなんとか、集まってくる。広場では、学童保育のフェスティバル。風強いけれど、こどもたちは元気だ。
糸賀一雄記念賞第六回音楽祭。ことしは、全館を使ってゆったりと行うことになって、まず、小ホールではじめての試み、「踊りと音楽の体験ワークショップ」が2回あった。ナビゲーターは、司会などもするやすなみずほさんと、一人で音楽をつくりあわせていただいた宮本妥子さん。あと、大きな映像はアフリカのサファリみたいなところ。象やチーター(この動きをダンスするのはタイヘン)、河馬などが動く。最初のほうの参加者が多いということだったが、2回目もちょうどいい具合に集まって、最初の回では車椅子の人が数名いたので、気づくとうちの学生も車椅子を押したりしていた。こちらも、障碍者といっしょに踊るのはあまりに楽しいので、気がつくと2回とも踊っていて、厚着していた衣を一枚、あと一枚ととっていく。
ダンスはほんとうに身体を開放させてくれる。装飾して固定化してしまっている自分の薄皮を少しずつはがして行くワークショップ。リズムをまねるのも身体と耳の連動。2回目になると、学生たちもよりナチュラルにそこで動いているように思える。2回、ワークショップに出るというのは、ワークショップとはどういうものかを知るのはとてもいいことだろうと思う。
ファシリテーターのやすなさんとしては、少しやりづらかったかも知れない。が、さすがだと思ったのは、2回目、少し出始めのところが違っていたりしたり、小さな子がジャンベをたたき出したら、それを止めないで、うまくそれを活用したりして、これこそ、ワークショップの醍醐味!と思う。一人の学生がジーンズを破ってしまい平和堂にあわてて買いに走ったのも愉快なエピソード。
中ホールでダンスという身体表現だけを公演するのも、6回目ではじめての試み。最初、大阪からゲストできていただいだLOVE JUNXさんの黄色いTシャツといまどきのストリートダンスのリズムで会場が生き生きしたあと、ナビゲーターの北村成美さんと佐藤健大郎さんによる、さきらのダンスワークショップ・ダンス道場の人たちも交わった障碍者のダンスステージになった。ピアノと一つの体、から始まって、いつのまにか、いろいろな体がたたずんでいる。最初の一歩。それぞれの歩み。
ああ、これは、障碍者とともにあるべき「まち」(間-地)がここにあると思った。一つにまとまるのでもなく、単にばらばらでもない、留意とか注意とか、気配りとか、そういう言葉に近い関係がからだとしてそこにある。もちろん、からだはすこしずつかたまりから溶け出し、流れてゆく流動体となって、相手に向かい、また、まちに佇む。ピアノの生音でのダンスと賑やかなテープ音楽でのダンス、構成にも、見せる工夫が感じられる。
大ホール「合唱と打楽器演奏」ではこの音楽祭の原点である合唱にうたれた。ナビゲーター、林美紀さんや、作曲もした穂﨑奈名子さんのピアノ伴奏だけのコーラス。その歌っている人たちの顔がいい。もちろん、地声がそれぞれに聴こえるのももっといい。歌詞がところどころ聞き取れなかったりもするが、歌は言葉の霊化だなあと改めて思う。ことばのアニメーション。いや、「言の葉(端)」がアニマ(霊魂)だったことをもう一度取り戻すのが歌になって空中に響くこの合唱という媒体(メディウム)なのかも知れない。
京都新聞の記事(いつかなくなると思いますが、とりあえず)。
by kogure613
| 2007-11-18 21:30
| こぐれ日録
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