人気ブログランキング | 話題のタグを見る

梅若六郎・宝生弥一『隅田川 観世流』DVD鑑賞 

10/27(木)
きのうは一日、『限界芸術のお話』の原稿書きだった。
夕方には、7000字を越えてしまって、あとは、添削。気がつくと、11時を回っていた(私にしたらとても深夜である)。3回生ゼミの忘年会のお知らせがなぜかうまく届かないことをいいことに、そのまま、原稿づくりを楽しんでしまった(ごめんね)。

途中、休憩ということでもないが、限界芸術としての語りと身ぶりについて書いていて、ふと、買っておいた本、たなかやすこ『お話の風を吹かそう』(編集工房ノア、2003年)をぱらぱら。気がつくとほとんど読んでしまっていた。

今日は、付属についたCDも聞いてみる。自分の抑揚と肉声で目の前の子どもたちの反応とともに、じぶん史を語ること。じぶんの間合い、身ぶり。この本は難波の精華小劇場でたなかやすこさんの昔語りがあり、そのとき感銘を受けて買っておいたのだが、いま書いていることと実につながっていて驚くばかり。

やっぱり原稿の推敲や注づくり(あわてて送らないで数日寝かすことにしたのだった)が面倒になって(なかなか字数が減らない)、DVDで能楽名演集『隅田川 観世流 梅若六郎・宝生弥一 1977年』(NHKエンタープライズ、2006年、80分)も観た。シテツレ(旅人)で登場する宝生閑の若いこと。ワキ(渡し守)、宝生弥一(1908~1985)の語りを聞くと「ワキ」方の芸風というのもとても奥深いものだなあとしみじみ。

とはいえ、これは梅若家55世の梅若六郎(1907~1979)の晩年、放送としては最後のものであり、囃子方の3名を含めて、みんな明治生まれ最後の世代。声は大きくないが、とても優しい。面から流れたようには聴こえない。どこからとは言えないが、何だか不思議なところから響いてくる。それにもまして、その足の運び。

黒い笠がもの狂いの母の情念を隠している。母は、普通に道を歩いているようにはまるで見えない。浮かんでいる。いや、影がゆらいでいるうちに気がつくと移動は行われていて、あれれ、そこはもう隅田川。重力が梅若丸のお母さんの周りだけなくなっている(あるいは、月面程度に減少している)ようにしか思えないのだ。うーん、これは不思議。衣の色も淡く、人間ではないような軽さ薄さ。

でも、夢幻能形式の世阿弥の作品に比べて、元雅(世阿弥の子、若くして没す)のこの作品は、いささか現実的かつ演劇的で、舟に乗りこみ、渡し守の問わず語りから問答が繰り返されて、墓への大念仏とつながってゆくので飽きない。子どもの声の幻の聴こえ、そして幻視が三間四方で納まっているのも特徴かも知れない(世阿弥は、子役の声だけの方がいいと元雅の演出とは違う意見だったそうだ)。
by kogure613 | 2007-12-27 23:14 | こぐれ日録 | Trackback | Comments(0)

こぐれのぶお・小暮宣雄 写真は春江おばあちゃんと・サボテンの花嬉しく 


by kogurenob