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リフレクシヴィティ(再帰性、反省性)

2008/7/9

リフレクシヴィティ(再帰性、反省性)・・自分の欲求を外から眺めて相対化すること
               自分の要求・欲望を外側から相対化する回路(=再帰性)
森政稔『変貌する民主主義』(ちくま新書、2008)より

エスノメソロジー(フィールドワークな社会学にちょい文化人類学的エスノグラフィーがまじったもの?)で使われるそうです。わたしは、政治思想史の本で知りましたが。

http://www.nakahara-lab.net/phase3.htmlより一部引用:
「reflexivity」とは、「再帰性」などと訳され、おもに学問の領域では「研究者自身と研究対象の再帰的な関係のこと」をいいます。つまり、研究者と研究対象は、互いに他を構成しあっているということであり、この二つをわけて論じることはできないという意味になるでしょうか。あまりに抽象的なので、今、ひとつの例をだしてみて考えてみることにしましょう。

 今、研究を行っているある人が、ある小学校で、エスノグラフィーを行ったとします。エスノグラフィーを行ったことのある方ならおわかりだと思いますが、学校でエスノグラフィーを行うということは、その学校の成員の一部に「なる」ことが多くの場合求められます。

 子どもの学習活動をみせてもらうかわりに、たとえば、学校に導入したテクノロジーの整備をまかされるとか、授業を記録する係として働くだとか、そういうことが往々にしてあるものです。たとえば今仮に、それほど明確な「役割」が与えられなかったとして、たとえば「壁」のように教室におこる出来事を静かに見つめようと思っても、今度はなかなか子どもたちがそれを許してくれません。なんか知らないけれど教室にいっつもやってくる「おにいさん」・「おねえさん」という具合に認知されたり、あるいは「教生先生らしき人」という風に認知され、子どもたちの学習活動や遊びの活動の中に、知らない内に「からめとられて」しまうことが多々あります。もし、それでも意志の頑強な人で、「僕は絶対に黒子に徹する」といくらがんばってみても、それはどうもうまくいきません。たとえ、子どもの方がそれを許しても、先生は、自分の教育実践を「黒子のまなざし」の中で進めなくてはならないわけですから、研究を行うAさんのまなざしを無化することができない以上、研究するAさんがその場に「いること」による影響はなくなることはないわけで、たとえば、実践の相談役として先生に認知されてしまうことも多々あるようです。また、「まなざし」の中で語られる先生のことばにも何かしらの変容を与えてしまうでしょう。

 つまり、何が言いたいかというと、エスノグラフィーを行うということは、まさに「<研究するわたし>」と「研究対象の子どもや教師や学校」のあいだに再帰的(リフレキシヴィティ)な関係が生じると言うことなのです。つまりは、無化できない<研究するわたし>のまなざしや振る舞いが、研究対象に何らかの影響をあたえ、研究対象に何かしたの「変容」が生まれ、その「変容」が<研究するわたし>に認知され、それに対してまた記述を行うことで、研究対象がさらに「変容する」といういわば循環的関係が生じてしまうのです。こういう関係のことを、先のことば「reflexivity」は表しています。

 このようにエスノグラフィーは、「reflexive」な活動です。それは、<研究するわたし>や、見られる<子ども>や<教師>の意図や信念、まなざしとは無関係に、「reflexive」な活動なのです。この「無関係」というところがポイントです。

by kogure613 | 2008-07-09 07:53 | 情報収集 | Trackback | Comments(0)

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